11 September

千石船の湊を訪ねて 7

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東回り航路(2) 荒浜と阿武隈川、平潟、小名浜

1.東回り航路の原点「荒浜湊」
 仙台市から南へ25km程の阿武隈川河口にあり、現在は亘理町の一部になっている荒浜は、河村瑞賢が徳川幕府の命を受け、阿武隈川舟運で下した城米を、東回り航路の船で江戸へ積み出した地である。上杉米沢藩の減封で信夫・伊達両郡12万石が幕領となり、寛文10年(1670)、幕府は、この地年貢米の江戸回漕を河村瑞賢に命じた。瑞賢は、まず阿武隈川舟運の水路の整備を図った。福島県立図書館には、水路整備に際して作成された阿武隈川水路の暗礁や難所を書いた「阿武隈川舟運図」が所蔵されている。
 阿武隈川河口では、荒浜沖に海船を停泊させ、小船で海船まで運んだ。当時の荒浜には、阿武隈川を下された城米を一時保管する米蔵が13棟も建っていたと言われる。この瑞賢の輸送後も、荒浜は、明治の初期まで東北地方の太平洋側では、石巻に次ぐ米の積出湊であった。現在昔の米蔵の跡には、荒浜小学校が建っているが、昔は阿武隈川とつながった水路あったと言われる辺りも、既に埋め立てられ何の変哲もない道路になっており、近所には当時の遺跡は見あたらない。荒浜湊のあった亘理町の悠里館は、郷土資料館、図書館、AVシアターなどの施設を備えた総合施設である。その郷土資料館には、亘理の歴史の移り変わり等が展示されており、瑞賢が幕府の城米廻船であることを示すために船に掲げた標識、上に「日の丸」が描かれ、下部には「御用」と墨書された御城米絵符も展示されている。 城米を輸送した廻船は、必ずこの絵符を俵の上にたてて航行した。

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    荒浜の資料館「悠里館」                            復元された福島河岸の船着場

2.阿武隈川舟運
 阿武隈川は、宮城県の沼の上から下流は流れも穏やかで水深もあったが、上流の福島から宮城県の丸森に入る辺りでは、川底が浅く、川中に岩もあり、流れの激しい所や舟の通れない所もあったという。このため、上杉時代は舟が使えず、人が荷を背負って運搬していたといわれている。新井白石の「奥羽海運記」によると、「瑞賢自ら阿武隈川の水路調査を行い、難所の改造など水路の整備を行った」とされている。
 天領の城米は、まず福島などから小鵜飼舟で沼の上(現宮城県丸森町)まで運び、ここで一旦陸上げして蔵に保管し、より大きなひらた船に積み替えて、荒浜まで輸送された。
 阿武隈川舟運の起点は福島である。この「福島河岸」には、福島藩の米蔵、回船問屋の船合所、米沢藩上杉家の蔵場が立ち並んでいた。現在、ここに昔の船着場が復元されている。福島を出ると、両岸には福島九河岸が点在し、これらの河岸に村々から年貢米が持ち込まれ、寄蔵が設けられていた。宮城県境に近い梁川から丸森水沢にかけては、有名な「猿跳」もある難所で、水路開発の努力が続けられたところである。ここを過ぎるとひらた船への積替地沼の上河岸に入る。戦国時代の丸森は、伊達家と相馬家の激戦地であり、政宗もここで初陣をかざった。
 現在で言えば、阿武隈急行線あぶくま駅近隣であるが、駅前に地域産業伝承館があり、ここから阿武隈渓谷ライン舟下り舟が運航されており、阿武隈川舟運の名残を伝えている。両岸は県立自然公園で、屏風岩、百々石公園、廻石や弘法の噴水等阿武隈渓谷のすばらしい景観が続き、見飽きる事がない。
 丸森町商店街の中心部には、幕末から昭和初期に栄えた豪商、齋藤屋敷と5つの蔵があり、公開されている。少し下流の伊達氏と相馬氏が激しく争った城下町角田にも、船着場があった。現在角田城跡は、中学校と高校になっている。また、さらに下流の河口近く亘理町荒浜と川を挟んだ北岸に位置する岩沼は、古くから交通の要衝の地で、宿場町であったほか、物産を仙台に運んだり、江戸等からの物品を上流の角田や丸森、福島方面へ運んだりする役割も担っていた。また、荷物だけでなく人の輸送もあった。この地の渡邊家は、代々仙台藩の水運関係の御用を勤めるかたわら、旅館も営んでいた家で、その庭園は、市の文化財に指定されている。

3.風待ち湊の平潟
 仙台東方の石巻や荒浜を出航して、進路を江戸に向けると、直線的な海岸線が続く。塩屋岬を越えると、最初に大きく湾曲している海岸線にあるのが、平潟や小名浜である。江戸時代、ここが風待ち湊として利用された。
 いわき市の南、勿来の関に程近い福島県と茨城県の県境をわずかに茨城側に入った、名勝「五浦海岸」に程近い所にある平潟は、河村瑞賢の東回り航路で指定された重要な湊となった。海岸近くの道路から、いりくんだ細い坂道を下りていくと、馬蹄形に湾曲した地形の港が現れ、「茨城観光百選 平潟港」と刻まれた石碑がある。湾内は波静かで鏡のようである。現在の平潟港は漁港で、夏場の海水浴期間以外は閑散としている。地元の人の話によると、この辺りはアワビやウニの産地で、新鮮な魚もとれ、観光客に喜ばれているという。
 平潟港の北側には、遮蔽の山があり、今見ても風待ち湊としての性格を満たしていると思えるが、古い時代の「平潟の絵図」を見ると、岩山に囲まれた湾は、まさに理想の帆船の風待ち湊である。しかし、江戸時代の初期までは、何の変哲もないところであったが、江戸への年貢米輸送を計画した仙台藩が、最初に目を付け、ここに陣屋を置き、役人を常駐させて、湊の整備に勤めたといわれている。河村瑞軒による東回り航路での幕府米輸送が計画されると、平潟は幕府指定の寄港地となり、幕府の御城米浦役人が置かれた。この瑞賢の輸送を契機に、平潟湊には、多くの船が立ち寄るようになり、廻船問屋が軒を並べて賑わうようになる。
 城米の円滑な輸送と港湾管理のため、幕府から浦役人に任じられていた平潟村の庄屋鈴木主水の茅葺屋敷が、現在も港を見下ろす高台に保存されている。また、近くには風光明媚な「五浦海岸」のほか、史跡「勿来の関跡」、岡倉天心にちなむ「六角堂」や「五浦美術館」、「野口雨情記念館」等観光にもことかがないところである。

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     平潟港の鈴木主水屋敷                          小名浜湊発祥の地小名川東岸

4.小名浜湊
 常磐道自動車道を「いわき勿来IC」で下り、国道6号線に出て、茨城県と福島県の境にある奥州三関の一つ勿来の関跡の北側をさらに北に進んでいくと、すぐ右手に見えてくるのが、小名浜港である。現在の小名浜は、いわき随一の港町であり、国際貿易港である。常磐炭鉱が盛んなときは、石炭の積出港でもあった。
 江戸時代初期の小名浜は、磐城平藩の領地であったが、延享4年(1747)幕府は、この地を天領(直轄地)に指定した。その目的は、近隣諸藩を監視するのに適していたためと云われている。また、河村瑞賢が東廻り航路を開発の際には、原釜(相馬港)とともに東北地方の幕領から江戸へ送る御城米運送船の寄港地に指定された。また、磐城地方各藩の納付米を海路で江戸に積み出す湊としても機能していた。このように、小名浜は、江戸時代には、幕府直轄の湊であると同時に、東回り航路廻船の寄港地でもあり、かつ、避難港でもあった。
 小名川東側の浜海岸近くにある米野地区は、小名浜発祥の地として古くから栄えたところで、現在も古い家並みが残っており、信用金庫の一角が、「小名浜みなとまち資料館」になっている。
 近くの薄磯海岸の高台には、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となり、美空ひばりの「みだれ髪」で歌われた塩屋埼灯台があり、また、海の息吹を感ずることのできる「三崎公園のマリンタワーと潮見台」、常磐炭坑にちなんだ「いわき市石炭化石館」や「スパリゾートハワイアンズ」もある。

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03 June

千石船の湊を訪ねて6

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東回り航路(1) 宮古、石巻、黒尻沢

1.東回り航路の概況

 一般的には、秋田、酒田あたりから出発した船が津軽海峡を通り太平洋から江戸へ達する航路が、東廻り航路と呼ばれていた。江戸時代以初期までは、使用された船がオモキ型の200〜300石積位の小さな船(天当船)であったことから、太平洋航路は、たいへん困難な航路で、天候をみながら沿岸を伝うようにして航海していた。
 徳川幕府が成立して、参勤交代が始まると、東北各地の大名は、江戸での生活を維持するために、米や地元産品を大量に江戸に送る必要が出てきた。また、幕府も東北各地の領地からの年貢米を江戸に輸送する必要が生じた。しかし、茨城県の那珂湊周辺は、今でも鹿島灘と呼ばれているように、ここから房総半島を回る航路は、そう簡単ではなかった。黒潮が北上している上に、冬期には西風が吹いていたからである。
 江戸初期には、那珂湊まで来ると、ここで川舟に積み換え涸沼川を通って涸沼に入り、さらに陸路も使いながら北浦や霞ヶ浦等の湖沼や河川も利用して、松戸から太日川(現在の江戸川下流)を下って行徳まで行くというような経路がとられていた。この内陸コースが内川(うちかわ)回りと呼ばれているものである。幕府は、この内川回りを整備するために、当時東京湾に流れていた利根川を銚子に流す河川の付け替えを長時間かけて行い、銚子から利根川を遡り、関宿から江戸川に入る新しい内川回り水路を完成させた。
 一方、1671年に、幕府の命令を受けた河村瑞賢により、幕府直轄領であった福島の信夫郡と伊達郡の米を、阿武隈川を下し、仙台南方の荒浜から房総半島を回って江戸へ直送する輸送が試みられ、東廻り航路が完成した。しかし、瑞賢は航海の安全のために、天候の穏やかな夏を選んだり、連絡通信用の狼煙台を造ったり、舟の通過監視や危険時の援護のための施設を整備したりしている。それでも、荒浜から直接江戸に入るのは危険なので、房総半島から一度伊豆下田か三浦半島の三崎に入り、ここで風待ちして江戸に向っている。遠浅の海岸近くを帆走航行して逆風に遭うと、座礁する危険があったためである。このように、この航路は、銚子からは利根川に入る内川回りと、房総半島を回って小湊から下田か三浦三崎を経て江戸に入る房総回りに分かれることとなる。


2.宮古の湊
 宮古の湊は、宮古湾に囲まれたリアス式海岸の天然の良港である。海岸は、断崖や奇岩が複雑に入り組んでおり、透明度の高い青い海は絶景である。湾口には、景勝地浄土ケ浜があり、天然記念物の潮吹穴、ロ−ソク岩などもあり、観光客が多い。湾内を巡る遊覧船は、ウミネコの餌付けができることでも有名で、遊覧中は多くの客が餌を手にウミネコと戯れている。海岸は、「日本の渚百選」にも選ばれた人気の海水浴場である。東には、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となったトドヶ崎灯台もある。この灯台は明治35年に建てられた歴史のある灯台で、映画の基となった手記を書いた灯台守夫人田中キヨさんの記念碑が断崖に建っている。
 南部藩は、この天然の良好な環境を利用して湊として整備し、軍港と商港を兼ねた三陸第一の湊とした。南部藩の水産物や地元産品は、盛岡城下への供給は云うに及ばず、ここから江戸や長崎向けて積出された。特に「長崎タワラモノ」と呼ばれた干しナマコや干しアワビ、フカヒレのような海産物は、中華料理に使われる高級食材で、長崎での中国貿易の日本側輸出品として幕府に使われたものである。


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            景勝地の浄土ヶ浜                       遊覧船からのウミネコの餌付

3.石巻湊と北上川舟運(黒尻沢河岸)
 名勝松島に程近い宮城県の石巻は、北上川の河口にある。現在も市街地を旧北上川が流れ、付け替えられた北上川本流の河口は太平洋へと注いでいる。江戸時代この石巻湊は、「三十五反の帆を巻きあげて行くや仙台石の巻」と舟歌にも歌われた仙台藩有数の湊であった。仙台藩には、他にも湊があったが、北上川水運と直結し、仙台藩のみならず、上流の南部藩等他藩の江戸廻米及び物産輸送も担っていた石巻湊には、及ぶべくもなかった。
 仙台藩主伊達政宗は、藩財政確立のため米穀の専売制を成立させ、本格的に江戸への廻米を開始した。これに先立ち、土木家川村孫兵衛を召し抱え、北上川の水路整備と拠点湊としての石巻の整備を行った。石巻湊の整備後は、上流の南部藩も藩境の黒沢尻(現在の北上市)に川湊を開き、盛岡からの水路を整備し、石巻を経由して米穀等を江戸へ運んだ。そのため、石巻は江戸廻米の一大拠点となり、仙台藩の米蔵45棟の他に、他藩の蔵も多数造られていた。石巻廻船は、房総半島から下田又は三浦を経由して品川に入港し、艀舟で隅田川東岸の深川にある各藩米蔵等に荷物を揚げた。深川近辺には、各藩の米蔵が立ち並んでいたが、その中でも仙台藩の米蔵は最大で、現在でも東京に「仙台堀川」という地名が残っている。
江戸からの石巻廻船は、帰り荷として仙台城下の六仲間商人から注文を受けた物品を積載して帰国し、塩釜湊か石巻湊に陸揚げした。これらの荷物は、川舟や陸路を使って仙台城下等に輸送された。この石巻廻船の江戸荷物については、その荷揚地や仲間商人以外の荷物の取扱いなど、いろいろ問題も多かったが、長くなるのでここでは述べない。いずれにせよ、石巻廻船は、藩の廻米以外に商人の荷物も積載していたのが大きな特徴である。
 川村孫兵衛が、北上川の改修時に、北上川河口から上流に1kmほど上ったところにある『中瀬』を特に残したのは、造船場として利用しようという藩の思惑があったといわれている。この『中瀬』は、長さ625m、幅約80mの島である。その思惑は当たり、後にこの地に千石船の造船技術が伝えられ、仙台藩の造船基地として多くの千石船が建造されている。

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           石巻の中瀬                  川村孫兵衛の像       黒沢尻河岸のあった北上市展勝地

4.現在の石巻と黒尻沢(北上市)
 石巻市内中心部の標高56mのなだらかな丘陵地に日和山公園があり、今も市民の憩いの場となっている。眼下には旧北上川河口とその先に太平洋が広がっており、左手には牡鹿半島が、右手には松島や蔵王の山々を望むことができる。かつて、奥の細道紀行中の松尾芭蕉もここに立ち寄り、山頂から眺め湊町石巻の賑わいぶりを「奥の細道」に記している。他にも宮沢賢治や斎藤茂吉など、多くの文人も訪れ、歌を詠んでいる。山頂には、これらの文人達の像や記念碑、歌碑等が数多く立てられているが、この日和山公園に、石巻の開港や江戸廻米に尽力した川村孫兵衛の銅像が立っており、その指さす先に造船の中心地となった「中瀬」がある。
 また、街の中央旧北上川のほとりにある住吉公園辺りは、昔諸藩の御蔵の建ち並んでいたところで、義経が船賃の代わりに片袖をちぎって船頭に与えたと伝えられている「袖のわたり」の地としても有名である。石巻廻船の一隻に「観慶丸」があるが、その観慶丸本店が、江戸からの帰り荷として輸送し、収集してきた陶磁器を陳列展示したのが「丸寿美術館」である。古伊万里や古九谷など約200点が常時展示されている。
 また、少し時代が下がるが、明治政府は、東北地方開発のため、宮城県桃生郡野蒜村(現宮城県東松島市)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。その時船舶の通過用に設けられたのが「石井閘門」である。この野蒜港計画は、中止となったが、「北上運河」と「石井閘門」は、その後も使用され、現在石井閘門は、重要文化財に指定されており、石井閘門脇に「北上川・運河交流館水の洞窟」が開設されている。
 一方、南部藩の廻米舟運拠点川湊として栄えた黒沢尻河岸のあった周辺も景勝の地で、北上川にかかる珊瑚橋を渡った一帯は「北上市展勝地」として公園になっている。ここには、当時のひらた舟「天神丸」が復元され係留されている他、坂の上には舟運などの資料を展示した「北上市立博物館」があり、丘一帯は、「みちのく民俗村」として、古民家や歴史的建造物等が復元保存されている。また、「サトウハチロー記念館」もある。





05:30:53 | umi | |

20 March

千石船の湊を訪ねて 5

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東西航路の交点、北海道と青森(3)  南部の湊

1.下北半島の田名部通七湊
a.田名部通七湊
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         現在の田名部大橋付近                 安渡と大平は大湊となり、会津転封の斗南藩が上陸

 南部藩は、下北地方にある七つの湊を藩の対外貿易用の重要湊として指定し、湊役所を置き、間尺役(積石税)を取り立てたが、これらの湊が『田名部通七湊』である。現在もむつ市に田名部という地名があるが、南部盛岡藩は領内10郡を33通に分けそこに代官所を置いていたが、田名部もその一つで、この代官所で田名部通(下北地方)全体の支配をしていた。したがって、『田名部通』というのは、代官所が所管する下北半島の総称である。なお、田名部通七湊は、固定されたものでなく、木材が中心の積み出し荷物との関係で何回も変更された。
 下北半島からの最大の積み出し荷物は、ヒバ材である。地元の文献によっては、『檜材』あるいは『南部檜』と書かれているものもある。下北のヒバ材は、他の地では『あすなろ』とも呼ばれている檜に似た常緑の喬木で、現在でも恐山に登っていく恐山街道の両側に、見事なヒバ林を見ることができる。この木は、水に強かったことから、建築物の土台や、井戸の側材、水屋、湯殿、橋梁、漆器用材等に重宝された。明暦3年(1657)と万治元年(1658)の江戸の大火の際に復旧用として江戸に積み出されている他、各地に積み出されている。

b.田名部代官所近くの競争相手大平と安渡
 田名部通の湊々に入った船が、江戸や大坂をはじめとする各地から運んできた積み荷は、その多くが田名部川の大橋脇に並んでいた蔵屋敷に運ばれたし、他国に出荷する海産物などの集積も田名部で行われた。田名部と近くの大平や安渡と蔵屋敷の間は、田名部川を利用してカンコ船と呼ばれる川舟で運ばれた。大畑、佐井等他の湊に入ったものは牛馬で運ばれたことを考えると、両湊は格段の優位さをもっていた。安渡及び大平は、現在は両方ともむつ市大湊になっているが、古くからの良港で、会津藩から転封された斗南藩の上陸地でもある。

c.津軽海峡沿いの木材の積出湊、大畑、大間、易国間
 下北半島の北岸にあり、津軽海峡を挟んで北海道と対峙している大畑は、大畑川河口が湊となって、多くの良材を産出し、諸国の廻船が出入りした重要な湊である。また、最近では近海まぐろで有名になっている下北北端の大間や易国間も、木材の積み出し湊である。この他、大間湊からは、長崎会所を経由して清国に輸出される『長崎俵物』といわれる干しアワビや海参(いりこ)などの海産物も積み出された。

d.下北半島西岸の木材の積出湊、佐井、奥戸、牛滝、九艘泊、脇野沢
 佐井は河川湊で、河口まで筏で流した木材の積み出しに利用された湊で、田名部通七湊の重要な湊として藩の湊役所が置かれており、大小数軒の船問屋があった。奥戸も、最初は七湊に指定されていたが、後に除かれている。この他、仏ヶ浦のある牛滝、まさかり南端の九艘泊と脇野沢、むつ湾内の川内等も木材の積み出し用の湊として利用されたが、七湊に指定されたり外されたりしている。木材積出し位置の変遷に伴うものであろう。

2.南部藩指定の銅の積出港となった野辺地湊
 南部藩は、明和2年(1765)尾去沢鉱山を藩の直営とし、翌年から御用銅を野辺地の湊から大坂に向けて積み出すこととなった。このことは野辺地湊の発展の上では、大きなできごとであった。この御用銅というのは、幕府が長崎を経由して外国に輸出した銅のことで、銅山で荒銅と呼ばれる荒削りの精錬をした上で大坂に送られ、大坂の吹屋と呼ばれる精錬所で最終精錬し、幕府の御用に使われた。商人が扱っていた頃の尾去沢鉱山産銅は、石巻、能代、野辺地の湊から大坂へ積み出されていた。尾去沢鉱山は、十和田湖の南にあり、野辺地の湊までは34里(136km)余もあり、銅という重い荷物の陸上輸送は大変なものであった。従って北上川を使って石巻湊へ、あるいは米代川を使っての能代湊への河川舟運による輸送が便利であった。しかし、南部藩直営となったため、自国領の野辺地湊から積み出すこととなったのである。このため、銅山から来満峠(秋田と青森の県境)を通って野辺地湊まで、牛の駄賃輸送が行われた。盛岡市史によれば、この輸送方法変更の背景には、秋田藩と南部藩境界紛争があり、米代川の利用が禁じられたことがあったという。
 御用銅の運搬にあたった廻船には、御用銅の他に、領内で産出する大豆や海産物なども一緒に積み込んでいる。南部藩では、領内で生産される大豆を藩で買い上げ、野辺地湊から出る御用銅を運搬する雇船で大坂へ積み出した他、江戸時代の木綿の普及に伴う干鰯(ほしか)や魚油、中華料理の材料として長崎に積み出された干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかひれ)等の長崎俵物も積み込んだ。南部藩では、かつては農産物や海産物を商人が集荷し、藩外に出荷するに際して「御役金」という税金を徴収していたが、後には藩収入を増加させるため、専売制をとり、支配問屋を指定し、独占的に集荷を行わせた。
 明治24年(1891)、東北本線が開通したことにより、野辺地湊の機能は衰退し、今や商港としての機能はほとんど残っていない。JRバスを裁判所前で降り、下り坂を海岸の方向に出ると、文政10年野村治三郎によって建設された「常夜燈」が立っている。江戸時代の野辺地湊の記念碑である。その傍らには、かつての野辺地湊の説明板が立てられている。また、元南部藩の野辺地代官所跡には、中央公民館や図書館と隣り合わせに野辺地町立歴史民族資料館が建っている。ここの資料館には、考古・歴史・民俗関係の資料が展示されているが、何よりも古文書を熱心に収集し、シリーズの資料集として発行していることに感心させられる。このような地道な努力は、後学の者にとってたいへんありがたいことである。

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            野辺地湊の常夜燈                 鮫湊のあった蕪島付近はウミネコの繁殖地

3.河村瑞軒より前に江戸と結ばれた八戸湊
 寛文4年(1664)、第27代南部藩主重直が、後嗣が決まらないままに死亡した。通常大名の後嗣が無い場合は、お家取り潰しである。重直には子がなく、残っていた兄弟二人も、一人は七戸氏となり、他の一人は母の姓を名乗っていた。しかし、幕府は南部累代の功を考え、いったん断絶とした上で、兄隼人に8万石を与えて盛岡南部藩を継がせ、弟数馬には2万石を与えて、八戸藩を創設させた。
 東北諸藩からの江戸廻米輸送がいつ頃から始まったのかは、あまりはっきりしないが、慶長19年(1614)に南部藩の蔵米が江戸に送られたのが、記録上一番古いものではないかと云われている。その後、仙台藩が、元和6年(1620)に江戸に廻米を行っている。八戸藩の創設間もない寛文7年(1667)には、八戸藩の廻米船が八戸から房総半島を迂回し、江戸湾に入って江戸両国橋に着岸した記録が残っている。これは、河村瑞賢の東回り航路開発に先立つこと4年前であり、特筆すべきことである。この記録は、南部藩の『雑書』の寛文7年の項に明記されている。その後、八戸から江戸への輸送が本格化するとともに、宝永年間になると、出羽の城米が東回り航路で江戸に輸送されるようになり、八戸に寄港する船舶も増加している。当時の輸送の中心となった鮫湊のあった蕪島付近は、現在ではウミネコの繁殖地として有名になっている。






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23 January

千石船の湊を訪ねて4

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東西航路の交点、北海道と青森(2)    津軽の湊

1.南部藩と津軽藩

 現在の青森県は、江戸時代の盛岡南部藩の一部と八戸南部藩、津軽藩及び黒石津軽藩の4藩が合わさってできたものである。この項で述べる津軽藩は、弘前(旧高岡)に城を築いて城下町としていた。しかし、城下が内陸にあったため、当時小さな漁村であった青森に新しい湊を築き、東回りの重要な湊として発達させた。むつ湾に流れる双股川が、南部藩と津軽藩の境界で、全国でも珍しい藩境を示す半球状の土塚が4基築かれている。
 津軽藩の湊は、「四浦、五浦」と称されていた。このうち「四浦」というのは、青森、鯵ヶ沢、深浦、十三(とさ)の四湊で、青森と鰺ヶ沢は津軽藩の代表的な湊、深浦と十三は歴史的に由緒ある湊である。一方、「五浦」というのは、国境警備の上で重要な碇ケ関、大間越、野内の「三浦」と、付近山林の木材積み出し湊として重要であった蟹田、今別を意味する「二浦」の総称である。津軽藩の海運は、もともと鰺ヶ沢湊など西海岸の湊を利用した西回り航路が中心であったが、青森に新しい湊を開いてからは、東回り航路にも進出している。

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        津軽藩と南部藩の藩境塚                     青森山の古絵図

2.千石船の湊として開発された青森の町

 津軽藩は、寛永元年(1624)幕府から許可を得て城米の江戸回漕を目的として、青森湊の築造を開始した。当時の青森は、善知鳥(うとう)村といい、周辺は茅萱が生い茂った漁家数十軒程度が点在する荒涼たる一漁村であつたと言われている。青森開港といっても湊のために大きな土木工事をしたと云うことではなく、むしろ湊として機能していくための町造りをしたという方が適切かもしれない。例えば、荷物の集散のための機能と施設造りである。津軽藩が青森湊を開発した背景には、北前船による蝦夷地との交易の中継地としての役割もあったと思われる。青森の地は寒冷で、米作りには適しておらず人口も少なかったため、藩は近江、富山、越前、越後などにまで、人を派遣して商人の移住を勧誘するとともに、移住者に対して種々の特典を与える事を約束している。また、上方等から来た船は、近隣の湊でなく全て青森湊に入って商売するような指示も出している。
 青森という名前は、昔ここに青森山という丘があったことによる。古絵図によると、団子みたいな小さな丘であるが、ねずの木が生えて、いつも緑々した山で、非常に縁起がいいというので名付けられたという。青函連絡船の玄関口であった青森も、今は新幹線の開業に関心が移っている。しかし港には、私も建造時に安全検査を担当した「青函連絡船八甲田丸」が係留されており、今も静かに町の動向を見守っている。青森の原点となった昔の善知村の位置には、善知鳥神社が祭られている。また、青森市内西方には、「みちのく北方漁船博物館」があり、国の重要有形民俗文化財である「ムダマハギ型漁船」「シマイハギ型漁船」等今は少なくなった木造漁船を中心とした和船を保存、展示している。木造船の構造を知るのに良いところである。

3.姿を現した中世の港湾都市『十三湊(とさみなと)』
 津軽半島の北部西海岸に十三湖(じゅうさんこ)という湖がある。しじみ漁業の盛んな湖で、しじみ汁が旨いことで有名な所である。今は、静かなこの地も、かつては、安東水軍で知られる安東氏の根拠地であり、中世から近世にかけて港湾都市『十三湊』として栄えた所で、『廻船式目』の『三津七湊』の一つとして記され、全国でも有数の港町として繁栄していた。(この記述は、越前伝来写本にのみあり、厳密さを問題にする意見もある。)
 しかし、15世紀に入ると、安東氏と南部氏の抗争が始まり、安東氏は追われて北海道に移り、この湊も衰微したと言われている。またこの地は、大津波により町が大被害を受け、地中に埋まったとも伝えられてきているが、中世の状況については、直接見られるものや詳しい資料はなく、伝承と後世の文献の中にのみ語られてきた。
 平成3年から5年にかけて、国立歴史民俗博物館が、大学や地元機関と協力して、この十三湊遺跡の共同発掘調査を行い、その後も青森県教育委員会等による調査が進められてきている。その結果、その実態がだんだんと明らかになりつつあり、伝説の伝える津波による壊滅的打撃も無く、中世の港湾都市遺跡が存在することが判明し、ますますロマンをかきたてる史跡になっている。中島には発掘資料を収めた『市浦歴史民族資料館』がある。

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          発掘現場の写真                           市浦歴史民族資料館

4.鰺ヶ沢と小泊の湊
 江戸時代の鯵ヶ沢は、津軽藩の御用湊として全盛を迎える。北陸や瀬戸内海、大坂からの千石船が頻繁に往来するようになり、鯵ヶ沢は、津軽藩の財政と市場経済の拠点のひとつに成長していった。白八幡宮に奉納された船絵馬(慶応元年とある)には、当時の鯵ヶ沢湊が細かく描かれており、貴重な史料である。津軽半島の最北端、竜飛岬の少し南側にある小泊も、古くから松前へ行く船の風待ち湊である。現在は漁業が基幹産業となっているが、この辺りの海岸には、「七つ滝」、「青岩」などの奇勝もあり、見所の多いところである。

5.『北国船の絵馬』で有名な円覚寺のある深浦
 日本海に沈む夕日の海岸で有名な深浦町は、江戸時代に京阪神地方と蝦夷地が海運によって結ばれるようになると、天然の入江が『風待ち湊』として重要な寄港地となった。湊には、湊番所、船問屋などがあった。この地の円覚寺は、船頭、水主達から『澗口の観音』(湾口の航海安全の観音)と呼ばれて、厚い信仰の対象となり、数々の奉納物が納められた。高田屋嘉兵衛がロシアの軍艦に捕えられた時にも、弟金兵衛が観音様に無事帰国を祈願した文書が残っている。現在の本堂も、船大工によって建てられ、欅がふんだんに使われている。
 この寺に奉納品の中には、江戸期日本海運の研究のために重要な物品が多数含まれている。奉納された船絵馬は合計70点あり、また、船乗りが海難に遭遇して観音さまに助けを求め、助かったことに感謝して、お礼に髷(まげ)を切って納めた『髷額』が28点等、合計106点の海事関係資料があり、国の重要有形民族文化財に指定されている。その中でも、特に有名なのは、他に技術資料の少ない『北国船の絵馬』である。
 私自身もこの絵馬は、文献では何回もお目にかかっていたが、ここを訪れた時に、住職にお願いし、通常の見学コースから離れ、長い間じっくりと眺めさせて頂き、長年の願望を果たした。また、深浦駅の近くに『深浦町歴史民俗資料館』と『北前の館』もあり、職員のていねいな応接に感銘を受けた。
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         円覚寺の灯台杉                          深浦町歴史民俗資料館




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15 December

千石船の湊を訪ねて 3

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東西航路の交点、北海道と青森(1)

1 この地域の概況

 江戸時代、北海道や東北地方の漁獲物、東北地方の 米は江戸・大坂への重要な荷物であった。その航路は、北海道や日本海の沿岸の湊から、津軽海峡を経て太平沿岸を南に下がり、江戸に至る東回り航路と、下関を経て瀬戸内海を大坂に入り、さらに江戸に達する西回り航路があったのは、上述の通りである。北海道は、豊富な昆布やニシンを産出した北前船の出発地であり、対岸の青森の各湊は、北海道の松前三湊に至る前の風待ち湊としての性格や、北海道に来た廻船の冬季の船囲いの場所ともなっていた。また、下北半島は古くから豊富な木材の積み出し地でもあり、まさに津軽海峡は、東西航路の交点となっていた。東北地方は、芭蕉の「奥の細道」で、その概念が形作られているが、それは陸上での話であり、何の制限もない海上では、むしろ「海の広道」として、全国各地と広範な交流や取引の行われていた地であった。

2.松前藩と松前三湊
 江戸時代の米穀経済の中で石高の定められていなかった大名が一家だけあった。それが北海道松前に本拠を構えた松前藩で、「無高の藩」と呼ばれていた。松前藩には、蝦夷地でのアイヌを相手とした交易の独占権が認められていたが、これが藩経済の基本であり、蝦夷地の要所に商場(場所)を設けて、藩の直領として運営したほか、有力な家臣にも知行としてこの場所を与えていた。アイヌとの交易品は鮭、昆布、ナマコの干し物、干鮑、毛皮、鷲の羽等である。これらの物品にニシンを加えた産品は、松前に進出した近江商人などを通じて全国に流通され、珍重されたが、これらの物産を運んだ船が北前船である。大坂を出発し、各地で商売をしながら瀬戸内海を通って、下関から日本海を北上し、松前にやってくる。松前で北の幸を積み込んで、再び来た道を商売しながら大坂を目指して行くわけである。これらの交易で富を築いた商人は、城下の松前だけでなく、ニシン漁で賑わった江差、昆布の産地であった函館に拠点を構え、江戸時代これら三つの湊は、松前三湊と呼ばれて繁栄を謳歌した。
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3.城下町松前
 江戸中期の松前湊の状況を示す資料は少ないが、その頃の状況を詳しく書いた屏風が残されており、松前城下の全景と海岸での船で賑わいが表されている。松前城の海岸には、『沖の口役所』も画かれている。松前は今では静かな田舎町である。しかし、町の中央に城がそびえ、古いお寺もたくさんあり、歴史を感じさせる。松前城の天守の内部が「松前城資料館」で船道具等が展示されている他、江戸時代の松前を再現したテーマパークである「松前藩屋敷」には、江戸時代の町並みが復元されており、その総数は14棟もある。また、町民総合センター内に設けられ「松前町郷土資料室」では、松前の商人文化や庶民の暮らしを知ることができる。

4.ニシンで栄えた江差

 元禄期に入ると幕府が全国的に商品作物(綿花等)の生産を奨励したこともあって、その肥料としてニシン粕の需要が高まり、江差には多くの北前船が入り、商人が拠点を構えて空前のにぎわいを見せた。松前同様、その頃の状況を詳しく書いた屏風が残されている。しかし、ニシン漁の衰退とともに町も静かになっていった。江差と云えば江差追分であるが、中山道で馬子歌として歌われていたものが舟歌となって船頭達に歌われるようになり、北前船の運航に伴って江差にもたらされて生まれた民謡である。江差町では、江差追分会館を建設し江差屏風絵を描いた緞帳を持つ立派な舞台で、実演を行って保存をはかっている。
 ニシン漁の盛んな時代の江差には、廻船問屋が軒を並べていた。現在では、静かな漁師町になっているが、町を歩くと当時の繁栄を記す廻船問屋の建物も残されており、天井に巨大な龍の絵のある「法華寺」や明治の香りの漂う「旧檜山爾志郡役所」等とともに、歴史の伊吹を感じることができる。その中でも「横山家(道指定有形民俗文化財)」は、北前船の商店と家屋も兼ねた京風の造りで、奥には蔵もあり、ここから舟着場に続いていたことがよくわかる。現在蔵の一つを使ってそば屋を営んでおり、保存上からも非常に価値のあることと思う。すぐ近くの「旧中村家住宅(国指定重要文化財)」も、土台に北前船で運んだ越前の笏谷石を使った立派な建物で、昭和49年に江差町に寄贈され、現在は修復して一般公開されている。松前藩随一の豪商であった関川家本宅も、横山家、中村家などの近くにあったが、その建物は残っていない。江差の町外れに別荘が残っているが、豪壮な庭園に樹木が茂っている状況はみごとなもので、ここの蔵を使って江戸時代の調度品や古文書が公開されている。江差の沖には、かもめが翼を広げたような形のかもめ島があり、その島の手前に復元された徳川幕府軍艦開洋丸が係留されている。幕府海軍副総裁榎本武揚らを乗せて、蝦夷地に来たが江差沖で暴風のため座礁沈没した。
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        横山家                   旧中村家                 江差追分会館

5.昆布の名産地函館

 函館は天然の良港で、湾内は波が穏やかで、『綱知らずの港』とも云われ、北海道の玄関として申し分の無い地である。昆布の生産が進展し、東蝦夷地の開発が進むと、これら産物の集積地として北前船によって繁栄がもたらされた。また、江戸時代後期には、淡路島出身の豪商高田屋嘉兵衛が、千島との交易中継基地として、私財を投じてこの町の整備をすすめたことから、今でも町のあちこちにその名残が残っている。函館山の麓には、「高田屋嘉兵衛像」が立ち、当時の倉庫2棟を再利用して「高田屋嘉兵衛資料館」が開館している。当時の「北前船」の修理場所が現在の「函館ドック」に繋がっていったと云われている。
 さらに、幕末のペリー来航に伴う措置として、横浜・長崎とともに日本最初の国際貿易港として開港し、欧米文化の影響を直接受け、元町を中心に近代的な町並みへと発展していった。今も残っている教会や旧領事館、石畳の坂道など、異国情緒あふれる街並みは、この時代の影響である。
現在は青函トンネルができ、青函連絡船の発着場所であった昔の駅前は寂れているが、唯一元気があるのが、函館駅に隣接する函館朝市である。筆者も、函館を訪れる度に、朝市の食堂で名物の海鮮朝市丼を楽しんでいる。函館駅の裏手には、昭和63年まで青函連絡船として活躍した摩周丸が係船されているが、筆者も八甲田丸の建造に関係したことから、これらの船を見る度にいろいろな感慨が浮かんでくる。もちろん、函館を訪れると世界三大夜景の一つとされる函館山や五稜郭、石川啄木一族の墓、与謝野晶子の歌碑がある立待岬、最近若者に人気の「赤レンガ倉庫」(金森倉庫)も必見である。

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       函館朝市             高田屋嘉兵衛資料館           金森倉庫(赤レンガ倉庫)




06:36:59 | umi | |