01 August

海軍の威信とアメリカ国民意識――パナイ号事件に見る文明の違い――


 当事件が表面化されることはなく、知る人はあまりない。
国民国家意識が醸成された米国民に向かって、対アメリカ軍事担当の海軍が介入を仕掛けたこの事件を通じ、その3年後に生じたアジア太平洋戦争との関わりについて、院生時代のテキスト、笠原十九司「日中戦争とアメリカ国民意識」『日中戦争』中央大学人文科学研究所編1998年8月p391〜p465から少々述べてみたい。
 1937年12月12日、南京攻略作戦の最終段階、海軍機が南京付近の長江を遡上中のアメリカの砲艦パナイ号と3隻のタンカーを攻撃、撃破、撃沈、船長2名を死傷させ、多数の重軽傷者を出した。南京大虐殺の行われた時期と場所が同じ地域であったこと、このとき、8名の報道カメラマンや記者、多くの外交官等が乗り合わせていた。報道関係者は日本軍の残虐行為を中国サイドから取材したあと、南京から避難中の出来事であった、途中で日本の陸軍士官がパナイ号を停船させ、乗艦して、目的や停泊地を調べていった。
 事件発生当日は、晴天、午後1時38分、攻撃してきた爆撃機の日の丸をはっきり確認した。1次攻撃は3機の爆撃機、2次攻撃は戦闘機6機で、計20発の爆弾投下、負傷者運搬中の救命ボートに向かって機銃掃射が加えられた。パナイ号と、護衛されていた3隻の米スタンダード石油会社タンカー各船には、複数の大型星条旗が掲げられ、上空からもはっきり確認できた。この事件は翌12月13日のアメリカ大手新聞各社により、一面すべてが当てられるなど、大きく報道され、乗船していたユニバーサル映画のカメラマンが撮ったフィルムは、映画化されニューヨークの映画館はどこも満員になった。
 ワシントンポスト紙は、1938年1月18日に「・・・すべての日本商品のボイコットによってのみ狂気の日本軍閥を抑制することができる。アメリカの少女ならびに女性たち、絹をボイコットすることで戦争は阻止できる・・・」と反日感情はきびしく、女性側は実力行使に出た。ルーズベルト大統領下の和平交渉は、日本側も誤爆を認め、丁重な陳謝、損害賠償を約し、アメリカ政府との決着はついた。海軍側の戦略どおりに事は推移し、国内では、一件落着、馬耳東風を決め込んだものの、内心、威信を保ちつつも、勝ち目のない対米戦を避けるために必要な、極めて重要な作戦でもあったことも承知していた。報道の自由に対する米側の過剰防衛反応もあったにせよ、日本軍国主義に対しての恐怖は増しつつあった。  

 防衛研究所紀要 第11巻第1号(2008年11月)戦史部第1戦史研究室の論文によると、1941年12月の真珠湾攻撃は、山本五十六連合艦隊司令長官直々の命を受け、徹底した情報収集と機密保持を基に綿密な作戦計画と訓練が行われ、そしてその作戦意図を最後まで隠し通した海軍による戦術的インテリジェンスの金字塔であった。時期的にも、F・W・ランチェスター法則7割5分という、米英と互角に戦える戦力ぎりぎりの可能性を擁した最後のタイミングにあった。戦争が長引けば負けることもまた必至であった。そしてこの難問に対する解答を提示したのが山本五十六長官であり、それこそが航空機の奇襲による真珠湾攻撃なのであった。 
 さらにはこの奇襲攻撃が成功した後に海軍が頼りにしたのは、アメリカの世論が厭戦気分に支配されることと、ドイツの欧州制覇であった。すなわち山本は戦術的に米海軍を叩く方法を提示し、成功したが、戦略的な解決方法となると明確な解答を提示するまでには至っていないということになる。
恐らく戦術的に見れば、海軍の判断は極めて合理的なものである。しかし戦略的に見ると、対米戦という判断は全く意味のないものであろう。
既述したように、日本軍には中長期的な観点から状況を判断するセクションが存在していなかった。そして海軍はアメリカ世論が長期戦に耐えられない、という何の根拠もない予測に頼ったのである。
 山本は真珠湾攻撃がアメリカの世論に打撃を与えると考えていたようであるが、そのような考えは全く逆であったことがすぐに露呈するのである。そもそも米世論の厭戦蔓延とドイツ軍の進撃に賭けておきながら、米世論に対してプロパガンダ工作を行うことや、ドイツ軍に対する客観的な研究を実施することは不十分なままであった。国内への報道問題で有名なのは、台湾沖航空戦における戦果誤認であろう。台湾沖航空戦とは1944年10月12日から16日まで行われた日米間の航空戦であり、この戦いで日本側航空戦力は大打撃を被ったが、大本営は現場からの報告をそのまま鵜呑みにしてしまい、空母19隻(本作戦に参加した米空母は17隻)、戦艦4隻を撃沈、撃破と発表、日本中を勝利に沸かせた。
 もしこの戦果が本当であれば、西太平洋における米空母部隊はほとんど壊滅したことになる。実際に撃沈された空母は一隻もなく、この過大な戦果は現場の未熟な搭乗員の報告とそれを受け取る指揮官が確認作業を怠ったことにある。この手の報道は、中毒症状を呈する傾向にあるのか、米空母「レキシントン」は6回、「サラトガ」は4回も撃沈されたことになっている。そのあまりの杜撰な報告に天皇は「サラトガが沈んだのは今度でたしか4回目だったと思うが」と軍令部総長に苦言を呈す有様であった。原爆投下、焼夷弾により国家の現実を目の辺りにすることとなった。
     
ご参考までに、2013年終戦戦記念日にあたり、以下「昭和天皇による人間宣言」と1930年ころのドイツ新生児教育の資料を「東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程  鳥飼研究室」より引用させていただきました。
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アメリカの砲艦パナイ号

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11 November

ひょっこりひょうたん島 2


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毎日新聞2010年6月13日朝刊のコラム<井上ひさし氏に思う>を執筆した、加藤陽子・東大教授は、私も恥ずかしながら中学3年から浪人時代までNHKを観続けたと。
<ひょっこりひょうたん島ファンクラブ>会長の伊藤悟は、東京大学理?、文?を9年かけて卒業した根っからのマニアであり、子供のとき、すべての放送を記録したことでしられている。
製作スタッフに関しては、幼いころ、一家離散により不遇の環境で耐え抜いた井上、同様の山元護久、さらにプロデユーサーもしかりという。
これらのスタッフによるコラボから出来上がった作品は、かれらの単なる共同作業から出来るはずはない。NHKの英断と熱意には敬意を表さざるをえない。このミュージカル初期のエピソードのいくつかは、児童文学の名作といわれている北杜夫「船乗りクプクプの冒険」が原案になったと井上は述べている。
結果、茶の間に夢と希望をもたらし、未来への指針を、<共生社会>というかたちで示し、<テレビをみて学ぶ>ことができるということを教えた。
放送期間:1964年4月6日 から 1969年4月4日

1969年11月10日、C・T・Wが製作したセサミストリートの第一話のオープニングがあった。
「セサミストリート」は膨大な国費を投入し、現場と一流の研究者を融合させて制作された。
米国が威信をかけてつくったこの番組の目的とするところは、多民族、多世代、そして多様な動物さえも包括した住民たちが、日常生活を通じ、相和し、共存し―共生社会―、生きるという事、道徳の模範を学ぶ教育番組であった。そして子どもたちの誰もが、その個性をもって、社会に参加出来るのだと言う事をも教えた。そっくりひょうたん島であり、日本文化の海外流出である。NHKは、2004年の3月までの30年以上に亘って、その国の子どもたちが置かれている環境と問題点に合わせた共同制作版ではなく、アメリカ本国のオリジナル版を放送した。誕生以来40年、140以上の国と地域で愛され続け、世界で最も有名な教育プログラムのひとつとされ、2009年までに世界の放送業界で権威と歴史のあるエミー賞を122個も受賞するなど新記録ずくめのTV番組であった。上海万博では、浦西エリアにある1号ドックにおいて、セサミストリートのマペットたちと、万博のマスコット「海宝」との融合を通じ、未来に向かって想像し、そして探求する試みもなされた。
かような経緯をへた「セサミストリート」ではあるが、その成果や如何?それはあきらかである。世界を変えたのであった。
11月10日に放送がはじまるオリジナル版の新シリーズではミシェル・オバマ夫人も登場する。... Yes、we can! Change!


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高学年むけマルチメディア教材「ミミ号の航海」は「セサミストリート」の最初のプロデューサーでもあるサミュエル・ギボンがあたった。?海底に沈んでいる金塊を航海図頼りに捜し当てる。?、台風の進路を避けながら目的地の島に船を誘導する?、海上で遭難している船を標識信号電波(ビーコン)を手がかりに救助する。という3本のソフトと、そこで学んだことを生かした応用編の「救助任務」からなっている。(東京大学大学院情報学環beat seminarから)

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05:35:13 | umi | |

13 October

ひょっこりひょうたん島

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外岡大成(会員)

いつもなら宇佐美だよりとなるところ、「ひょっこりひょうたん島」とさせていただいた。
故小佐田教授が、この番組をたいそう気にいられていたご様子を知り得た矢先に、訃報に接することとなってしまった。

生前の身に余る御厚誼、心よりご冥福お祈りします。



「ひょうたん島ファンクラブ」による分析では、この長編ミュージカルは、見るひとに多くの夢と希望を与え、その内容に、冒険ダン吉との類似性が、多々みられるなど指摘している。   

「ひょうたん島」研究家、佐藤悟氏は、「ひょうたん島は、決して、思い出のレベルに封印されるべきものではなく、21世紀を指針する文化遺産である」という。

たしかにそのとおり。学問的に、史実と整合は出来ないものの、イメージとして容易に可能である

タイトルにもある「ひょうたん」は、奇抜な形状をもち、中になにがはいっているのか好奇心をかきたてる。前者との相乗効果でイメージは加速される。

よくいわれる日本のガラパゴス化など、「ひょうたん島スピリット」に逆行するものであって、未来に対してメリットはない。

さいわいにも、沼津においては、「ひょうたん島」に勇気と、希望と、共生のポリシーを与えてもらった人たちが、どうしてもしなければならないという「使命感から」、宮内庁旧御用邸に隣接した牛臥山に、「ひょうたん島資料館」を造るべくプロジェクトを立ち上げ、実現へ向けて、着実に前進させている。
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沼津市民の間では、オリジナル版の
『ひょっこりひょうたん島』が放映されて
いた頃から、ひょうたん島に形がそっくり
と、もっぱらの評判でした。


キーワードは、「夢と共生」、その核となる資料館を「子どもたちに夢を与える砦」にしたいとのこと。

沼津といえば、徳川家の親族水野氏の領地であった。

幕末、ディアナ号のプチャーチン提督以下、乗組員が滞在し、戸田村民と友好を築いたこと; 初の洋式船「戸田号」の進水; 戦時下のリトアニアで6000名のユダヤ人の命を救った杉原千畝領事夫人、幸子さんの出身地;イラクで負傷したアフマド少年の手術を沼津で実施させたカメラマン橋田信介さん(バクダッドにおいて銃弾を受け死亡);など国際的ヒューマニズムに満ちた土地柄でもある。
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ひょっこりひょうたん島のなつかしい登場人物

「ひょっこりひょうたん島」が当地に出来て、子どもたちに「夢と共生」の精神を養生することは、伊豆人として、心より応援したい。




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コサダセンセより



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29 November

宇佐見湾だより4

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 寛永11年(1634)に建造されたとする安宅丸に関し、特筆すべきは、銅板で覆われた巨大な船体と、豪華を極め、
贅をつくした装飾であった。将軍の威光を高める目的のために建造されたとも言えるこの巨船は、航行に問題があっ
た為か、隅田川に永らく係留され、本来の目的を十分発揮することなく、天和2(1682)に解体された。

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「巨船安宅丸の研究」石井謙治『海事史研究』第22号より

 幕末、伊豆を視察した浦賀奉行小笠原長保は、外国船打払令の出た文政7年(1825)、写真の地を訪れている。
そこで12人で抱え込むことの出来るクスの切り株とそこから出たひこばえの大木を確認している。(『甲申旅日記』)

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春日神社のひこばえクス

 この宇佐美、春日神社のクスは、安宅船を建造するのための材料として切られ、幕府から250両を下賜されたとの
記録もみられる。(『さりはま 第46号』) クス材は、古来より彫り物にも利用されており、安宅丸の船首尾や、数多
くの彫刻にも用いられたことが考えられる。






 会員外岡大成さんの宇佐見湾だよりは今回で一区切りとなります。しばらく休筆ということで、また新しいシリーズ
が期待されます。


07:14:01 | umi | |

04 October

宇佐見湾だより3


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近世にはいると、いくさの形態も銃、大砲が大きな役目をはたすようになった。城郭は大砲の攻撃に耐えられるものでなければ
ならなかった。すでに太田道灌によって築かれていた江戸城を修築することは、戦国時代の延長としての徳川新政権にとっては、
緊急の課題であった。しかし、砲撃に耐えうる石材は、江戸近辺では得られなかった。利根川上〜中流からは丸石ばかりか、
ここを輸送路として使うには、治水の必要もあった。
東京湾にある鋸山(鋸南町)の石材もあったが、城郭用としては不適当とされた。目をつけたのが、北条氏の領地だった小田原
から熱海、伊豆半島東海岸に分布する安山岩群であり、とくに宇佐美の「御石ヶ沢」近辺には豊富にあった。

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河川の石舟とおもわれる。和漢船用集より

慶長9年(1604)8月「幕府は、江戸城修築の工を起こさんとし、(西国)諸大名に令して石材を運送せしめ・・・」と天下普請を
発布した。その内容は
?石綱(つな)船3千艘の建造命令
?船の大きさは「百人持ちの石二個」を伊豆半島東岸から江戸まで運べる規模のもの
?この輸送業務を「一ヶ月に二往復おこなう」であった。
石綱船建造のため補助金として、1万1925両があてられた。
浅野幸長 385艘、島津忠恆 300艘、黒田長政 150艘、堺商人尾崎又次郎100艘ほか合計3000艘であった。石綱船;
築城石を船に積み込むための神楽桟(かぐらさん―ウインチ)を装備した船。百人持ちの石;一人40kg、安山岩密度2.7g/
㎤とすれば、およそ、90cm×90cm×180cmとなり、外様雄藩に、石高10万石に付きこの石1120個を割り当てた
といわれる。

慶長11年2月、島津忠恆、幕府ノ命ニ依リテ造レル石綱船ヲ江戸ニ送ル、(史料総覧)
諸大名、江戸城増築助役ノ為メ、相尋デ参府ス、又家臣ヲ伊豆ニ遣シ、石材ヲ輸送セシム、(同上)
慶長11年5月25日、畿内、東海道諸国、風雨洪水数日ニ亙ル、江戸城修築ノ為メ、伊豆ノ石材ヲ運漕スル船舶、多ク覆沒ス、
(同上)(200艘が沈没との説がある)
慶長11年5月、是月、江戸城石壘修築ノ工竣ル、尋デ、幕府、助役ノ諸大名ニ物ヲ與フ、(同上)

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石綱船の絵であるが、慶長年間の築城石としては、大きすぎる。
錨に関して、検証を要するとおもわれる。この点につき、どなた
かご教示いただければさいわいです。ちなみに、絵にもある4つ
爪錨は、幕末、葛飾北斎の『風俗画報』76号、「佃島の錨」に
みられ、明末の崇禎10年(1637)に出された「天工開物」にも
同じものがあります。(箱根湯本、下田氏所蔵)

以上、第1次の天下普請であり、第5次までなされるが、第2次は慶長16年(1611)3月から19年(1614)9月にかけてであった。
そのとき同時になされたのが運河(舟入堀)工事であった。
伊豆各地から10トンほどの築城石をのせた石綱船は1日平均200艘にもなったが、重量物を陸揚げするための桟橋を、遠浅の
江戸湾に作る技術が当時にはなかった。海面下を掘り下げ、工事現場近くまで石綱船を曳きいれ、横付けし、陸揚げしようという
計画である。


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石垣は主に伊豆の自然石で、このあたりの石垣の積み方は
初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石を
そのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうです
が、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、
関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。(皇居参観
ガイド’9/09/21)

現在、東京駅まえで国道1号線となっている旧東海道の、日本橋―-京橋1.4Km間には、その両側に平行して流れていた楓川
と外濠川のあいだを500mほどの11本の運河、東海道に一直線に架かった10のアーチ型橋がつくられた。また伊豆方面に向
かう石船に積み込む飲料水を確保するため、神田上水からの水道もつくられていた。徳川秀忠によりすすめられたこの運河計画
と江戸新開計画(都市計画)は、慶長17年2月、安藤対馬守が駿府城の家康のもとを訪れ、決済をえて実行され、現東京の基礎
が築かれた。


16:48:01 | umi | |