Archive for September 2010

11 September

千石船の湊を訪ねて 7

null
東回り航路(2) 荒浜と阿武隈川、平潟、小名浜

1.東回り航路の原点「荒浜湊」
 仙台市から南へ25km程の阿武隈川河口にあり、現在は亘理町の一部になっている荒浜は、河村瑞賢が徳川幕府の命を受け、阿武隈川舟運で下した城米を、東回り航路の船で江戸へ積み出した地である。上杉米沢藩の減封で信夫・伊達両郡12万石が幕領となり、寛文10年(1670)、幕府は、この地年貢米の江戸回漕を河村瑞賢に命じた。瑞賢は、まず阿武隈川舟運の水路の整備を図った。福島県立図書館には、水路整備に際して作成された阿武隈川水路の暗礁や難所を書いた「阿武隈川舟運図」が所蔵されている。
 阿武隈川河口では、荒浜沖に海船を停泊させ、小船で海船まで運んだ。当時の荒浜には、阿武隈川を下された城米を一時保管する米蔵が13棟も建っていたと言われる。この瑞賢の輸送後も、荒浜は、明治の初期まで東北地方の太平洋側では、石巻に次ぐ米の積出湊であった。現在昔の米蔵の跡には、荒浜小学校が建っているが、昔は阿武隈川とつながった水路あったと言われる辺りも、既に埋め立てられ何の変哲もない道路になっており、近所には当時の遺跡は見あたらない。荒浜湊のあった亘理町の悠里館は、郷土資料館、図書館、AVシアターなどの施設を備えた総合施設である。その郷土資料館には、亘理の歴史の移り変わり等が展示されており、瑞賢が幕府の城米廻船であることを示すために船に掲げた標識、上に「日の丸」が描かれ、下部には「御用」と墨書された御城米絵符も展示されている。 城米を輸送した廻船は、必ずこの絵符を俵の上にたてて航行した。

null        null
    荒浜の資料館「悠里館」                            復元された福島河岸の船着場

2.阿武隈川舟運
 阿武隈川は、宮城県の沼の上から下流は流れも穏やかで水深もあったが、上流の福島から宮城県の丸森に入る辺りでは、川底が浅く、川中に岩もあり、流れの激しい所や舟の通れない所もあったという。このため、上杉時代は舟が使えず、人が荷を背負って運搬していたといわれている。新井白石の「奥羽海運記」によると、「瑞賢自ら阿武隈川の水路調査を行い、難所の改造など水路の整備を行った」とされている。
 天領の城米は、まず福島などから小鵜飼舟で沼の上(現宮城県丸森町)まで運び、ここで一旦陸上げして蔵に保管し、より大きなひらた船に積み替えて、荒浜まで輸送された。
 阿武隈川舟運の起点は福島である。この「福島河岸」には、福島藩の米蔵、回船問屋の船合所、米沢藩上杉家の蔵場が立ち並んでいた。現在、ここに昔の船着場が復元されている。福島を出ると、両岸には福島九河岸が点在し、これらの河岸に村々から年貢米が持ち込まれ、寄蔵が設けられていた。宮城県境に近い梁川から丸森水沢にかけては、有名な「猿跳」もある難所で、水路開発の努力が続けられたところである。ここを過ぎるとひらた船への積替地沼の上河岸に入る。戦国時代の丸森は、伊達家と相馬家の激戦地であり、政宗もここで初陣をかざった。
 現在で言えば、阿武隈急行線あぶくま駅近隣であるが、駅前に地域産業伝承館があり、ここから阿武隈渓谷ライン舟下り舟が運航されており、阿武隈川舟運の名残を伝えている。両岸は県立自然公園で、屏風岩、百々石公園、廻石や弘法の噴水等阿武隈渓谷のすばらしい景観が続き、見飽きる事がない。
 丸森町商店街の中心部には、幕末から昭和初期に栄えた豪商、齋藤屋敷と5つの蔵があり、公開されている。少し下流の伊達氏と相馬氏が激しく争った城下町角田にも、船着場があった。現在角田城跡は、中学校と高校になっている。また、さらに下流の河口近く亘理町荒浜と川を挟んだ北岸に位置する岩沼は、古くから交通の要衝の地で、宿場町であったほか、物産を仙台に運んだり、江戸等からの物品を上流の角田や丸森、福島方面へ運んだりする役割も担っていた。また、荷物だけでなく人の輸送もあった。この地の渡邊家は、代々仙台藩の水運関係の御用を勤めるかたわら、旅館も営んでいた家で、その庭園は、市の文化財に指定されている。

3.風待ち湊の平潟
 仙台東方の石巻や荒浜を出航して、進路を江戸に向けると、直線的な海岸線が続く。塩屋岬を越えると、最初に大きく湾曲している海岸線にあるのが、平潟や小名浜である。江戸時代、ここが風待ち湊として利用された。
 いわき市の南、勿来の関に程近い福島県と茨城県の県境をわずかに茨城側に入った、名勝「五浦海岸」に程近い所にある平潟は、河村瑞賢の東回り航路で指定された重要な湊となった。海岸近くの道路から、いりくんだ細い坂道を下りていくと、馬蹄形に湾曲した地形の港が現れ、「茨城観光百選 平潟港」と刻まれた石碑がある。湾内は波静かで鏡のようである。現在の平潟港は漁港で、夏場の海水浴期間以外は閑散としている。地元の人の話によると、この辺りはアワビやウニの産地で、新鮮な魚もとれ、観光客に喜ばれているという。
 平潟港の北側には、遮蔽の山があり、今見ても風待ち湊としての性格を満たしていると思えるが、古い時代の「平潟の絵図」を見ると、岩山に囲まれた湾は、まさに理想の帆船の風待ち湊である。しかし、江戸時代の初期までは、何の変哲もないところであったが、江戸への年貢米輸送を計画した仙台藩が、最初に目を付け、ここに陣屋を置き、役人を常駐させて、湊の整備に勤めたといわれている。河村瑞軒による東回り航路での幕府米輸送が計画されると、平潟は幕府指定の寄港地となり、幕府の御城米浦役人が置かれた。この瑞賢の輸送を契機に、平潟湊には、多くの船が立ち寄るようになり、廻船問屋が軒を並べて賑わうようになる。
 城米の円滑な輸送と港湾管理のため、幕府から浦役人に任じられていた平潟村の庄屋鈴木主水の茅葺屋敷が、現在も港を見下ろす高台に保存されている。また、近くには風光明媚な「五浦海岸」のほか、史跡「勿来の関跡」、岡倉天心にちなむ「六角堂」や「五浦美術館」、「野口雨情記念館」等観光にもことかがないところである。

null        null
     平潟港の鈴木主水屋敷                          小名浜湊発祥の地小名川東岸

4.小名浜湊
 常磐道自動車道を「いわき勿来IC」で下り、国道6号線に出て、茨城県と福島県の境にある奥州三関の一つ勿来の関跡の北側をさらに北に進んでいくと、すぐ右手に見えてくるのが、小名浜港である。現在の小名浜は、いわき随一の港町であり、国際貿易港である。常磐炭鉱が盛んなときは、石炭の積出港でもあった。
 江戸時代初期の小名浜は、磐城平藩の領地であったが、延享4年(1747)幕府は、この地を天領(直轄地)に指定した。その目的は、近隣諸藩を監視するのに適していたためと云われている。また、河村瑞賢が東廻り航路を開発の際には、原釜(相馬港)とともに東北地方の幕領から江戸へ送る御城米運送船の寄港地に指定された。また、磐城地方各藩の納付米を海路で江戸に積み出す湊としても機能していた。このように、小名浜は、江戸時代には、幕府直轄の湊であると同時に、東回り航路廻船の寄港地でもあり、かつ、避難港でもあった。
 小名川東側の浜海岸近くにある米野地区は、小名浜発祥の地として古くから栄えたところで、現在も古い家並みが残っており、信用金庫の一角が、「小名浜みなとまち資料館」になっている。
 近くの薄磯海岸の高台には、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となり、美空ひばりの「みだれ髪」で歌われた塩屋埼灯台があり、また、海の息吹を感ずることのできる「三崎公園のマリンタワーと潮見台」、常磐炭坑にちなんだ「いわき市石炭化石館」や「スパリゾートハワイアンズ」もある。

06:25:14 | umi | |