Archive for June 2010

03 June

千石船の湊を訪ねて6

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東回り航路(1) 宮古、石巻、黒尻沢

1.東回り航路の概況

 一般的には、秋田、酒田あたりから出発した船が津軽海峡を通り太平洋から江戸へ達する航路が、東廻り航路と呼ばれていた。江戸時代以初期までは、使用された船がオモキ型の200〜300石積位の小さな船(天当船)であったことから、太平洋航路は、たいへん困難な航路で、天候をみながら沿岸を伝うようにして航海していた。
 徳川幕府が成立して、参勤交代が始まると、東北各地の大名は、江戸での生活を維持するために、米や地元産品を大量に江戸に送る必要が出てきた。また、幕府も東北各地の領地からの年貢米を江戸に輸送する必要が生じた。しかし、茨城県の那珂湊周辺は、今でも鹿島灘と呼ばれているように、ここから房総半島を回る航路は、そう簡単ではなかった。黒潮が北上している上に、冬期には西風が吹いていたからである。
 江戸初期には、那珂湊まで来ると、ここで川舟に積み換え涸沼川を通って涸沼に入り、さらに陸路も使いながら北浦や霞ヶ浦等の湖沼や河川も利用して、松戸から太日川(現在の江戸川下流)を下って行徳まで行くというような経路がとられていた。この内陸コースが内川(うちかわ)回りと呼ばれているものである。幕府は、この内川回りを整備するために、当時東京湾に流れていた利根川を銚子に流す河川の付け替えを長時間かけて行い、銚子から利根川を遡り、関宿から江戸川に入る新しい内川回り水路を完成させた。
 一方、1671年に、幕府の命令を受けた河村瑞賢により、幕府直轄領であった福島の信夫郡と伊達郡の米を、阿武隈川を下し、仙台南方の荒浜から房総半島を回って江戸へ直送する輸送が試みられ、東廻り航路が完成した。しかし、瑞賢は航海の安全のために、天候の穏やかな夏を選んだり、連絡通信用の狼煙台を造ったり、舟の通過監視や危険時の援護のための施設を整備したりしている。それでも、荒浜から直接江戸に入るのは危険なので、房総半島から一度伊豆下田か三浦半島の三崎に入り、ここで風待ちして江戸に向っている。遠浅の海岸近くを帆走航行して逆風に遭うと、座礁する危険があったためである。このように、この航路は、銚子からは利根川に入る内川回りと、房総半島を回って小湊から下田か三浦三崎を経て江戸に入る房総回りに分かれることとなる。


2.宮古の湊
 宮古の湊は、宮古湾に囲まれたリアス式海岸の天然の良港である。海岸は、断崖や奇岩が複雑に入り組んでおり、透明度の高い青い海は絶景である。湾口には、景勝地浄土ケ浜があり、天然記念物の潮吹穴、ロ−ソク岩などもあり、観光客が多い。湾内を巡る遊覧船は、ウミネコの餌付けができることでも有名で、遊覧中は多くの客が餌を手にウミネコと戯れている。海岸は、「日本の渚百選」にも選ばれた人気の海水浴場である。東には、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となったトドヶ崎灯台もある。この灯台は明治35年に建てられた歴史のある灯台で、映画の基となった手記を書いた灯台守夫人田中キヨさんの記念碑が断崖に建っている。
 南部藩は、この天然の良好な環境を利用して湊として整備し、軍港と商港を兼ねた三陸第一の湊とした。南部藩の水産物や地元産品は、盛岡城下への供給は云うに及ばず、ここから江戸や長崎向けて積出された。特に「長崎タワラモノ」と呼ばれた干しナマコや干しアワビ、フカヒレのような海産物は、中華料理に使われる高級食材で、長崎での中国貿易の日本側輸出品として幕府に使われたものである。


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            景勝地の浄土ヶ浜                       遊覧船からのウミネコの餌付

3.石巻湊と北上川舟運(黒尻沢河岸)
 名勝松島に程近い宮城県の石巻は、北上川の河口にある。現在も市街地を旧北上川が流れ、付け替えられた北上川本流の河口は太平洋へと注いでいる。江戸時代この石巻湊は、「三十五反の帆を巻きあげて行くや仙台石の巻」と舟歌にも歌われた仙台藩有数の湊であった。仙台藩には、他にも湊があったが、北上川水運と直結し、仙台藩のみならず、上流の南部藩等他藩の江戸廻米及び物産輸送も担っていた石巻湊には、及ぶべくもなかった。
 仙台藩主伊達政宗は、藩財政確立のため米穀の専売制を成立させ、本格的に江戸への廻米を開始した。これに先立ち、土木家川村孫兵衛を召し抱え、北上川の水路整備と拠点湊としての石巻の整備を行った。石巻湊の整備後は、上流の南部藩も藩境の黒沢尻(現在の北上市)に川湊を開き、盛岡からの水路を整備し、石巻を経由して米穀等を江戸へ運んだ。そのため、石巻は江戸廻米の一大拠点となり、仙台藩の米蔵45棟の他に、他藩の蔵も多数造られていた。石巻廻船は、房総半島から下田又は三浦を経由して品川に入港し、艀舟で隅田川東岸の深川にある各藩米蔵等に荷物を揚げた。深川近辺には、各藩の米蔵が立ち並んでいたが、その中でも仙台藩の米蔵は最大で、現在でも東京に「仙台堀川」という地名が残っている。
江戸からの石巻廻船は、帰り荷として仙台城下の六仲間商人から注文を受けた物品を積載して帰国し、塩釜湊か石巻湊に陸揚げした。これらの荷物は、川舟や陸路を使って仙台城下等に輸送された。この石巻廻船の江戸荷物については、その荷揚地や仲間商人以外の荷物の取扱いなど、いろいろ問題も多かったが、長くなるのでここでは述べない。いずれにせよ、石巻廻船は、藩の廻米以外に商人の荷物も積載していたのが大きな特徴である。
 川村孫兵衛が、北上川の改修時に、北上川河口から上流に1kmほど上ったところにある『中瀬』を特に残したのは、造船場として利用しようという藩の思惑があったといわれている。この『中瀬』は、長さ625m、幅約80mの島である。その思惑は当たり、後にこの地に千石船の造船技術が伝えられ、仙台藩の造船基地として多くの千石船が建造されている。

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           石巻の中瀬                  川村孫兵衛の像       黒沢尻河岸のあった北上市展勝地

4.現在の石巻と黒尻沢(北上市)
 石巻市内中心部の標高56mのなだらかな丘陵地に日和山公園があり、今も市民の憩いの場となっている。眼下には旧北上川河口とその先に太平洋が広がっており、左手には牡鹿半島が、右手には松島や蔵王の山々を望むことができる。かつて、奥の細道紀行中の松尾芭蕉もここに立ち寄り、山頂から眺め湊町石巻の賑わいぶりを「奥の細道」に記している。他にも宮沢賢治や斎藤茂吉など、多くの文人も訪れ、歌を詠んでいる。山頂には、これらの文人達の像や記念碑、歌碑等が数多く立てられているが、この日和山公園に、石巻の開港や江戸廻米に尽力した川村孫兵衛の銅像が立っており、その指さす先に造船の中心地となった「中瀬」がある。
 また、街の中央旧北上川のほとりにある住吉公園辺りは、昔諸藩の御蔵の建ち並んでいたところで、義経が船賃の代わりに片袖をちぎって船頭に与えたと伝えられている「袖のわたり」の地としても有名である。石巻廻船の一隻に「観慶丸」があるが、その観慶丸本店が、江戸からの帰り荷として輸送し、収集してきた陶磁器を陳列展示したのが「丸寿美術館」である。古伊万里や古九谷など約200点が常時展示されている。
 また、少し時代が下がるが、明治政府は、東北地方開発のため、宮城県桃生郡野蒜村(現宮城県東松島市)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。その時船舶の通過用に設けられたのが「石井閘門」である。この野蒜港計画は、中止となったが、「北上運河」と「石井閘門」は、その後も使用され、現在石井閘門は、重要文化財に指定されており、石井閘門脇に「北上川・運河交流館水の洞窟」が開設されている。
 一方、南部藩の廻米舟運拠点川湊として栄えた黒沢尻河岸のあった周辺も景勝の地で、北上川にかかる珊瑚橋を渡った一帯は「北上市展勝地」として公園になっている。ここには、当時のひらた舟「天神丸」が復元され係留されている他、坂の上には舟運などの資料を展示した「北上市立博物館」があり、丘一帯は、「みちのく民俗村」として、古民家や歴史的建造物等が復元保存されている。また、「サトウハチロー記念館」もある。





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