Archive for March 2010

20 March

千石船の湊を訪ねて 5

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東西航路の交点、北海道と青森(3)  南部の湊

1.下北半島の田名部通七湊
a.田名部通七湊
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         現在の田名部大橋付近                 安渡と大平は大湊となり、会津転封の斗南藩が上陸

 南部藩は、下北地方にある七つの湊を藩の対外貿易用の重要湊として指定し、湊役所を置き、間尺役(積石税)を取り立てたが、これらの湊が『田名部通七湊』である。現在もむつ市に田名部という地名があるが、南部盛岡藩は領内10郡を33通に分けそこに代官所を置いていたが、田名部もその一つで、この代官所で田名部通(下北地方)全体の支配をしていた。したがって、『田名部通』というのは、代官所が所管する下北半島の総称である。なお、田名部通七湊は、固定されたものでなく、木材が中心の積み出し荷物との関係で何回も変更された。
 下北半島からの最大の積み出し荷物は、ヒバ材である。地元の文献によっては、『檜材』あるいは『南部檜』と書かれているものもある。下北のヒバ材は、他の地では『あすなろ』とも呼ばれている檜に似た常緑の喬木で、現在でも恐山に登っていく恐山街道の両側に、見事なヒバ林を見ることができる。この木は、水に強かったことから、建築物の土台や、井戸の側材、水屋、湯殿、橋梁、漆器用材等に重宝された。明暦3年(1657)と万治元年(1658)の江戸の大火の際に復旧用として江戸に積み出されている他、各地に積み出されている。

b.田名部代官所近くの競争相手大平と安渡
 田名部通の湊々に入った船が、江戸や大坂をはじめとする各地から運んできた積み荷は、その多くが田名部川の大橋脇に並んでいた蔵屋敷に運ばれたし、他国に出荷する海産物などの集積も田名部で行われた。田名部と近くの大平や安渡と蔵屋敷の間は、田名部川を利用してカンコ船と呼ばれる川舟で運ばれた。大畑、佐井等他の湊に入ったものは牛馬で運ばれたことを考えると、両湊は格段の優位さをもっていた。安渡及び大平は、現在は両方ともむつ市大湊になっているが、古くからの良港で、会津藩から転封された斗南藩の上陸地でもある。

c.津軽海峡沿いの木材の積出湊、大畑、大間、易国間
 下北半島の北岸にあり、津軽海峡を挟んで北海道と対峙している大畑は、大畑川河口が湊となって、多くの良材を産出し、諸国の廻船が出入りした重要な湊である。また、最近では近海まぐろで有名になっている下北北端の大間や易国間も、木材の積み出し湊である。この他、大間湊からは、長崎会所を経由して清国に輸出される『長崎俵物』といわれる干しアワビや海参(いりこ)などの海産物も積み出された。

d.下北半島西岸の木材の積出湊、佐井、奥戸、牛滝、九艘泊、脇野沢
 佐井は河川湊で、河口まで筏で流した木材の積み出しに利用された湊で、田名部通七湊の重要な湊として藩の湊役所が置かれており、大小数軒の船問屋があった。奥戸も、最初は七湊に指定されていたが、後に除かれている。この他、仏ヶ浦のある牛滝、まさかり南端の九艘泊と脇野沢、むつ湾内の川内等も木材の積み出し用の湊として利用されたが、七湊に指定されたり外されたりしている。木材積出し位置の変遷に伴うものであろう。

2.南部藩指定の銅の積出港となった野辺地湊
 南部藩は、明和2年(1765)尾去沢鉱山を藩の直営とし、翌年から御用銅を野辺地の湊から大坂に向けて積み出すこととなった。このことは野辺地湊の発展の上では、大きなできごとであった。この御用銅というのは、幕府が長崎を経由して外国に輸出した銅のことで、銅山で荒銅と呼ばれる荒削りの精錬をした上で大坂に送られ、大坂の吹屋と呼ばれる精錬所で最終精錬し、幕府の御用に使われた。商人が扱っていた頃の尾去沢鉱山産銅は、石巻、能代、野辺地の湊から大坂へ積み出されていた。尾去沢鉱山は、十和田湖の南にあり、野辺地の湊までは34里(136km)余もあり、銅という重い荷物の陸上輸送は大変なものであった。従って北上川を使って石巻湊へ、あるいは米代川を使っての能代湊への河川舟運による輸送が便利であった。しかし、南部藩直営となったため、自国領の野辺地湊から積み出すこととなったのである。このため、銅山から来満峠(秋田と青森の県境)を通って野辺地湊まで、牛の駄賃輸送が行われた。盛岡市史によれば、この輸送方法変更の背景には、秋田藩と南部藩境界紛争があり、米代川の利用が禁じられたことがあったという。
 御用銅の運搬にあたった廻船には、御用銅の他に、領内で産出する大豆や海産物なども一緒に積み込んでいる。南部藩では、領内で生産される大豆を藩で買い上げ、野辺地湊から出る御用銅を運搬する雇船で大坂へ積み出した他、江戸時代の木綿の普及に伴う干鰯(ほしか)や魚油、中華料理の材料として長崎に積み出された干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかひれ)等の長崎俵物も積み込んだ。南部藩では、かつては農産物や海産物を商人が集荷し、藩外に出荷するに際して「御役金」という税金を徴収していたが、後には藩収入を増加させるため、専売制をとり、支配問屋を指定し、独占的に集荷を行わせた。
 明治24年(1891)、東北本線が開通したことにより、野辺地湊の機能は衰退し、今や商港としての機能はほとんど残っていない。JRバスを裁判所前で降り、下り坂を海岸の方向に出ると、文政10年野村治三郎によって建設された「常夜燈」が立っている。江戸時代の野辺地湊の記念碑である。その傍らには、かつての野辺地湊の説明板が立てられている。また、元南部藩の野辺地代官所跡には、中央公民館や図書館と隣り合わせに野辺地町立歴史民族資料館が建っている。ここの資料館には、考古・歴史・民俗関係の資料が展示されているが、何よりも古文書を熱心に収集し、シリーズの資料集として発行していることに感心させられる。このような地道な努力は、後学の者にとってたいへんありがたいことである。

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            野辺地湊の常夜燈                 鮫湊のあった蕪島付近はウミネコの繁殖地

3.河村瑞軒より前に江戸と結ばれた八戸湊
 寛文4年(1664)、第27代南部藩主重直が、後嗣が決まらないままに死亡した。通常大名の後嗣が無い場合は、お家取り潰しである。重直には子がなく、残っていた兄弟二人も、一人は七戸氏となり、他の一人は母の姓を名乗っていた。しかし、幕府は南部累代の功を考え、いったん断絶とした上で、兄隼人に8万石を与えて盛岡南部藩を継がせ、弟数馬には2万石を与えて、八戸藩を創設させた。
 東北諸藩からの江戸廻米輸送がいつ頃から始まったのかは、あまりはっきりしないが、慶長19年(1614)に南部藩の蔵米が江戸に送られたのが、記録上一番古いものではないかと云われている。その後、仙台藩が、元和6年(1620)に江戸に廻米を行っている。八戸藩の創設間もない寛文7年(1667)には、八戸藩の廻米船が八戸から房総半島を迂回し、江戸湾に入って江戸両国橋に着岸した記録が残っている。これは、河村瑞賢の東回り航路開発に先立つこと4年前であり、特筆すべきことである。この記録は、南部藩の『雑書』の寛文7年の項に明記されている。その後、八戸から江戸への輸送が本格化するとともに、宝永年間になると、出羽の城米が東回り航路で江戸に輸送されるようになり、八戸に寄港する船舶も増加している。当時の輸送の中心となった鮫湊のあった蕪島付近は、現在ではウミネコの繁殖地として有名になっている。






07:16:13 | umi | |