Archive for December 2009

31 December

コサダセンセの詠草 3

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 今年も暮れていきます。1962年設立の海事史学会も47年目を迎えています。2010年は48年となり50周年まで
あとわずかとなります。
 しかし、今年は設立当初からの主要なメンバーの残念な訃報が届いています。海事史研究の書評、文献目録を
担当されてきた小川博理事、そして田中健夫副会長の訃報ということで、小佐田先生もさぞ力を落とされていること
と思い、連載のお願いもはばかられることと思いましたが、原稿をいただきましたので掲載させていただきます。



補注後編
<早よ送稿せにゃ>とこころばかりは急(せ)いても時間が取れぬを奈何せん。織りしも、余は2009年の年男、日本
国唯一、国立大学正規の演習「作句演習」(年2単位、入学から卒業まで取得せば8単位 ―各学部学科主要講座
と同単位)創設者なるに拘わらず、84才の本年にして一冊の単独句集すら無きは、まことにブザマ― という言葉
は使はざりしも同意― なるテイタラクではありませぬか?とて、わが往年のゼミの同輩ども十数名、わが庵 ―井蛙
洞と宣(なの)りをり― に襲来、余が尻を叩くべく毎月シッタゲキレイの最中(さなか)にて、ココロナラズモ延引中、マ
サシク晴天の霹靂、畏友ベンキョウチュウ大兄の訃報! ―申上ぐるべき言葉もなきまま徒(いたずら)に時日を送り
つづけし次第。何ともお詫びの術(すべ)もなきまま呆然自失。只々地に伏して・・・・・・・・
 されど、これ以上の沈潜は恕されぬこと、涙を打払って次回以降、補注をつづけさせていただくことをお誓い申し上
げて、とりあえず今回はこれにて・・・・・


20:24:01 | umi | |

15 December

千石船の湊を訪ねて 3

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東西航路の交点、北海道と青森(1)

1 この地域の概況

 江戸時代、北海道や東北地方の漁獲物、東北地方の 米は江戸・大坂への重要な荷物であった。その航路は、北海道や日本海の沿岸の湊から、津軽海峡を経て太平沿岸を南に下がり、江戸に至る東回り航路と、下関を経て瀬戸内海を大坂に入り、さらに江戸に達する西回り航路があったのは、上述の通りである。北海道は、豊富な昆布やニシンを産出した北前船の出発地であり、対岸の青森の各湊は、北海道の松前三湊に至る前の風待ち湊としての性格や、北海道に来た廻船の冬季の船囲いの場所ともなっていた。また、下北半島は古くから豊富な木材の積み出し地でもあり、まさに津軽海峡は、東西航路の交点となっていた。東北地方は、芭蕉の「奥の細道」で、その概念が形作られているが、それは陸上での話であり、何の制限もない海上では、むしろ「海の広道」として、全国各地と広範な交流や取引の行われていた地であった。

2.松前藩と松前三湊
 江戸時代の米穀経済の中で石高の定められていなかった大名が一家だけあった。それが北海道松前に本拠を構えた松前藩で、「無高の藩」と呼ばれていた。松前藩には、蝦夷地でのアイヌを相手とした交易の独占権が認められていたが、これが藩経済の基本であり、蝦夷地の要所に商場(場所)を設けて、藩の直領として運営したほか、有力な家臣にも知行としてこの場所を与えていた。アイヌとの交易品は鮭、昆布、ナマコの干し物、干鮑、毛皮、鷲の羽等である。これらの物品にニシンを加えた産品は、松前に進出した近江商人などを通じて全国に流通され、珍重されたが、これらの物産を運んだ船が北前船である。大坂を出発し、各地で商売をしながら瀬戸内海を通って、下関から日本海を北上し、松前にやってくる。松前で北の幸を積み込んで、再び来た道を商売しながら大坂を目指して行くわけである。これらの交易で富を築いた商人は、城下の松前だけでなく、ニシン漁で賑わった江差、昆布の産地であった函館に拠点を構え、江戸時代これら三つの湊は、松前三湊と呼ばれて繁栄を謳歌した。
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3.城下町松前
 江戸中期の松前湊の状況を示す資料は少ないが、その頃の状況を詳しく書いた屏風が残されており、松前城下の全景と海岸での船で賑わいが表されている。松前城の海岸には、『沖の口役所』も画かれている。松前は今では静かな田舎町である。しかし、町の中央に城がそびえ、古いお寺もたくさんあり、歴史を感じさせる。松前城の天守の内部が「松前城資料館」で船道具等が展示されている他、江戸時代の松前を再現したテーマパークである「松前藩屋敷」には、江戸時代の町並みが復元されており、その総数は14棟もある。また、町民総合センター内に設けられ「松前町郷土資料室」では、松前の商人文化や庶民の暮らしを知ることができる。

4.ニシンで栄えた江差

 元禄期に入ると幕府が全国的に商品作物(綿花等)の生産を奨励したこともあって、その肥料としてニシン粕の需要が高まり、江差には多くの北前船が入り、商人が拠点を構えて空前のにぎわいを見せた。松前同様、その頃の状況を詳しく書いた屏風が残されている。しかし、ニシン漁の衰退とともに町も静かになっていった。江差と云えば江差追分であるが、中山道で馬子歌として歌われていたものが舟歌となって船頭達に歌われるようになり、北前船の運航に伴って江差にもたらされて生まれた民謡である。江差町では、江差追分会館を建設し江差屏風絵を描いた緞帳を持つ立派な舞台で、実演を行って保存をはかっている。
 ニシン漁の盛んな時代の江差には、廻船問屋が軒を並べていた。現在では、静かな漁師町になっているが、町を歩くと当時の繁栄を記す廻船問屋の建物も残されており、天井に巨大な龍の絵のある「法華寺」や明治の香りの漂う「旧檜山爾志郡役所」等とともに、歴史の伊吹を感じることができる。その中でも「横山家(道指定有形民俗文化財)」は、北前船の商店と家屋も兼ねた京風の造りで、奥には蔵もあり、ここから舟着場に続いていたことがよくわかる。現在蔵の一つを使ってそば屋を営んでおり、保存上からも非常に価値のあることと思う。すぐ近くの「旧中村家住宅(国指定重要文化財)」も、土台に北前船で運んだ越前の笏谷石を使った立派な建物で、昭和49年に江差町に寄贈され、現在は修復して一般公開されている。松前藩随一の豪商であった関川家本宅も、横山家、中村家などの近くにあったが、その建物は残っていない。江差の町外れに別荘が残っているが、豪壮な庭園に樹木が茂っている状況はみごとなもので、ここの蔵を使って江戸時代の調度品や古文書が公開されている。江差の沖には、かもめが翼を広げたような形のかもめ島があり、その島の手前に復元された徳川幕府軍艦開洋丸が係留されている。幕府海軍副総裁榎本武揚らを乗せて、蝦夷地に来たが江差沖で暴風のため座礁沈没した。
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        横山家                   旧中村家                 江差追分会館

5.昆布の名産地函館

 函館は天然の良港で、湾内は波が穏やかで、『綱知らずの港』とも云われ、北海道の玄関として申し分の無い地である。昆布の生産が進展し、東蝦夷地の開発が進むと、これら産物の集積地として北前船によって繁栄がもたらされた。また、江戸時代後期には、淡路島出身の豪商高田屋嘉兵衛が、千島との交易中継基地として、私財を投じてこの町の整備をすすめたことから、今でも町のあちこちにその名残が残っている。函館山の麓には、「高田屋嘉兵衛像」が立ち、当時の倉庫2棟を再利用して「高田屋嘉兵衛資料館」が開館している。当時の「北前船」の修理場所が現在の「函館ドック」に繋がっていったと云われている。
 さらに、幕末のペリー来航に伴う措置として、横浜・長崎とともに日本最初の国際貿易港として開港し、欧米文化の影響を直接受け、元町を中心に近代的な町並みへと発展していった。今も残っている教会や旧領事館、石畳の坂道など、異国情緒あふれる街並みは、この時代の影響である。
現在は青函トンネルができ、青函連絡船の発着場所であった昔の駅前は寂れているが、唯一元気があるのが、函館駅に隣接する函館朝市である。筆者も、函館を訪れる度に、朝市の食堂で名物の海鮮朝市丼を楽しんでいる。函館駅の裏手には、昭和63年まで青函連絡船として活躍した摩周丸が係船されているが、筆者も八甲田丸の建造に関係したことから、これらの船を見る度にいろいろな感慨が浮かんでくる。もちろん、函館を訪れると世界三大夜景の一つとされる函館山や五稜郭、石川啄木一族の墓、与謝野晶子の歌碑がある立待岬、最近若者に人気の「赤レンガ倉庫」(金森倉庫)も必見である。

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       函館朝市             高田屋嘉兵衛資料館           金森倉庫(赤レンガ倉庫)




06:36:59 | umi | |