Archive for November 2009

29 November

宇佐見湾だより4

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 寛永11年(1634)に建造されたとする安宅丸に関し、特筆すべきは、銅板で覆われた巨大な船体と、豪華を極め、
贅をつくした装飾であった。将軍の威光を高める目的のために建造されたとも言えるこの巨船は、航行に問題があっ
た為か、隅田川に永らく係留され、本来の目的を十分発揮することなく、天和2(1682)に解体された。

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「巨船安宅丸の研究」石井謙治『海事史研究』第22号より

 幕末、伊豆を視察した浦賀奉行小笠原長保は、外国船打払令の出た文政7年(1825)、写真の地を訪れている。
そこで12人で抱え込むことの出来るクスの切り株とそこから出たひこばえの大木を確認している。(『甲申旅日記』)

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春日神社のひこばえクス

 この宇佐美、春日神社のクスは、安宅船を建造するのための材料として切られ、幕府から250両を下賜されたとの
記録もみられる。(『さりはま 第46号』) クス材は、古来より彫り物にも利用されており、安宅丸の船首尾や、数多
くの彫刻にも用いられたことが考えられる。






 会員外岡大成さんの宇佐見湾だよりは今回で一区切りとなります。しばらく休筆ということで、また新しいシリーズ
が期待されます。


07:14:01 | umi | |

24 November

海事史研究の口絵から3




海事史研究の8号―1967年の口絵です4月号は幕末来航の英国軍艦ユーリアルス号と10月号は北前船船主右近家の八幡丸です。
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幕末来航の英国軍艦ユーリアルス号 この写真は英国海事博物館蔵で本文は会員多田実氏。

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北前船船主右近家の八幡丸(福井県河野、磯前神社蔵) 本文は会員石井謙治氏。 


この内容は海事史学会ホームの海事研究にてPDF掲載いたします。




04:52:58 | umi | |

07 November

千石船の湊を訪ねて 2

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前書き(2) 東回り航路と西回り航路
 
1.房総半島の周辺は海の難所
 現在の感覚でいうと、東北地方から東京へ物資を輸送する場合は、房総半島を迂回して東京湾に入れば良いと簡単に考えてしまう。しかし、江戸時代初期に房総半島を迂回して江戸湾に入る航路は、それほど簡単ではなかった。この航路は、親潮や黒潮が日本東岸で東に向かって北米大陸の方向へ流れる上に、冬季は西又は北西の強い季節風を受けることから、江戸初期の和船にとっては、たいへん危険な航海となるからであった。江戸時代まで遡らなくても、ぼりばあ丸、かりふぉるにあ丸、尾道丸等現代の多くの大型船もこの同じ線上で冬季に海難事故を起こしている。(詳しくは、運輸省作成の「尾道丸事故に係る技術検討会報告書」参照)

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2.河村瑞賢の東回り航路と西回り航路開発
 寛文11年 (1671) 江戸の商人河村瑞賢は、徳川幕府の命により陸奥国等の幕府領米数万石を輸送することとなったが、この時の航路は、仙台の少し南の荒浜から房総半島を迂回して一度下田に入港した上で江戸に向かった。これが『河村瑞賢の東回り航路の開発』といわれているものである。瑞賢は、この開発の中に、従来に無いいろいろのアイディアが織り込んでいるが、その中でも一番重要な事項は、従来冬期に行っていた米穀輸送を夏に実施したことである。これは、夏期には、日本列島上空の強い西風もおさまり東風も期待できるからである。
 翌年、寛文12年に瑞賢は、出羽国の幕府領米輸送を命じられているが、この時は酒田から日本海を通り、関門海峡、瀬戸内海を経由して輸送している。このルートは、旧来の日本海海運、瀬戸内海海運、上方江戸海運の航路を繋いだものであった。これらは、距離は長いが、旧来から使われていた航路を繋ぎ合わせたものである。これが『西回り航路の開発』である。
 このように冬期の房総半島周りの航海は、たいへん困難であったことから、冬期に東回り航路を使う場合は、那珂湊や銚子で荷物を陸揚げし、そこから内陸部を陸送したり、内陸の河川舟運を利用したりしている。この内陸を回るコースが「内川廻り」と呼ばれていた利根川、江戸川及び小名木川を使った河川舟運である。徳川幕府は、この「内川廻り」の輸送ルートを整備するため、長い期間と莫大な資金を使って、当時江戸湾に流れていた利根川を銚子の方向に流す『利根川東遷工事』を実施している。(詳しくは谷弘著「江戸の町造りと船」参照)
 しかし、東廻り航路完成の1年後に、その開発者である河村瑞賢自身が、酒田から江戸までの輸送に西回り航路を選んでいるということは、いろいろのことを考えさせられる事実である。少なくともこの時点の日本海からの物資輸送は、関門海峡から上方を経由して江戸までの方が、たとえ長距離であっても、東回り航路を利用するよりも、海難によるリスクも含めた航海全体の経費は経済的と考えた結果と考えられる。
 いずれにせよ、この河村瑞賢の西回り航路の開発の結果、「天下の台所」大坂と日本海側の都市は海路で一気に結ばれ、さらに、大坂を経由して、江戸まで繋がっていった。その結果、この西回り航路を利用した輸送が、だんだんと一般的な完成された航路として発達していくこととなる。

3.河村瑞賢という人
 河村瑞賢は、元和4年(1618)、伊勢国度会郡東宮村(現三重県南伊勢町)に生まれた。13歳のとき江戸に出て、日雇い人足から身を起こし、車力、人夫頭、材木商などを経験した苦労人といわれている。明暦3年(1657)の江戸大火の時に、木曾の木材を買占めて巨大な富をなしたと云われている。その後、江戸城本丸等の修復や大坂の安治川開削なども手がけ、徳川幕府から絶大な信用を得たという。また、新井白石ら多数の学者との交遊も深く、その事跡は新井の著書に詳しい。河村瑞賢の生誕地には、真珠王御木本幸吉翁が建設した碑があり、東宮瑞賢公園として整備され銅像も建っているが、これは当地の訪問記の中で述べる。
 なお、瑞賢は、享年82歳でなくなったが、遺体は鎌倉の建長寺に葬られ、建長寺の墓の所には瑞賢の偉業が書かれた榊原篁洲撰の墓命碑が建てられている。

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        瑞賢の墓のある鎌倉の建長寺          奥に瑞賢、前に二子通顕の墓、左は追悼碑、右は顕彰之碑

3.江戸期のいろいろな廻船
江戸時代には、各地で千石船を使ったいろいろな輸送目的の廻船が運航されていた。
■城米廻船(幕府の年貢米を輸送する廻船)
■蔵米廻船(大名の年貢米を輸送する廻船)
■北前船(北海道から北陸地方を中心として日本海沿岸を経て大坂へ海産物等を輸送した。)
■菱垣廻船(雑貨一般を積んで大坂と江戸の間を往復していた。)
■樽廻船(灘の酒を江戸に輸送。)
■塩廻船(瀬戸内海産の塩を江戸その他の地域に輸送していた。)
■糸荷廻船(オランダや中国から輸入された絹糸や絹織物を堺等から江戸に輸送。)



14:41:08 | umi | |