Archive for October 2009

27 October

コサダセンセの詠草 2

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 第2号が遅れました。原稿をいただいておりましたが、第1号の補注を、という小佐田先生の申し出により、
しばらくストップしているうちに時が流れてしまいました。その後、例会でお会いして補注を頂だいいたしまし
たので第2号の末尾に補注(前編)をご紹介いたします。


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牛歩にはあらぬ蝸牛歩ちよろづの御手賜りて知らぬ日月へ



ここで、小佐田先生による前回のベンキャウチュウの補注をいれさせていただきます。


十二支を七周りしてまた子歳ベンキャウチュウと呼びまつる君
「前回、副会長・田中健夫兄に捧げさせていただきました拙詠には、若干の補注がないとご理解いただき難い
のでは?と愚考いたしましたので―

 健夫大兄は子歳のお生まれ、それも六十年に一度しか廻って来ない≪甲子きのえね≫でいらっしゃいます。
不肖筆者は、翌、乙牛(きのとうし)の産れであります。
 ところで、おのおの方、今より三十〜四十年前、一世を風靡いたしましたNHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」
のことをご存知でいらっしゃることと存じ上げております。そして、東大教授―当時、何千人居たか存じませんけど―
筆者の知る限り、熱狂的なファンは健夫兄と、斯く申すわたくしとのたった二人だけでございました・・・・・・・・・・
【以下次回】



11:09:48 | umi | |

17 October

千石船の湊を訪ねて

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前書き(1)  千石船と弁才船

1.湊回りの動機

 東国路の片田舎であった江戸が家康の入府により、関東各地から巨大な石や大量の材木を集めて町造りを進めて、当時では、世界でも類例のない百万都市に成長していく様は、なかなかダイナミックなものである。この資材運搬や建設工事の面で、船が大きな役割を果たしている。また、町ができ上がった後も、その大人口を養っていくために、菱垣廻船や樽廻船等で、京大阪からいわゆる『下り物』と呼ばれる大量の日用品が運ばれた。これらの状況は、2003年に『江戸の町造りと船』として出版した。
 この研究の中で江戸期千石船の資料も集める必要があったが、ちょうどその頃、仕事の関係で頻繁に東京と青森を往復することとなった。いろいろな行事や仕事の関係上、旅行日を土日とか、祝日にせざるを得ないことも度々あったが、これがかえって、旅行途上の地域の調査に役立った。
 休日を青森で過ごした時は、この目的で東北地方を調査するよい機会となり、北前船の出発地である北海道の松前、江差や函館等へも足を延ばした。青森での仕事が終わって後は、この調査を全国的規模で取り組みたいと思い、関東地方から、近畿、北陸、中四国、九州まで足を延ばすようになり、妻も誘って目的地近くまで飛行機で行き、後はレンタカーで各地を回る生活を続けている。
 訪れた土地では、名所旧跡を訪ね、図書館や資料館を訪問して、思わぬ発見をしたり、地元の方に大変親切にして頂いたりと、楽しい時を過ごしている。調査資料は膨大なものになったが、これはその概略紹介である。

2.千石船と弁才船
 タイトルを『千石船の湊を訪ねて』としたので、まず『千石船』の説明をしなければならない。もちろん千石船という名の船があるわけではない。「お米が千石積める程の大きな船」という意味である。地域的には、いろいろの船型があったが、江戸時代全体を通じての代表的な千石船は、「弁才船(弁財船とも書き、「べざいせん」と読む。)」である。日本海を航行した北前船や、江戸と上方を結んだ菱垣廻船や樽廻船もこの船型が使われていた。江戸時代も初期の頃は、700〜800石積みの船でも大型船であったが、江戸後期になるとどんどん大型化して、2000石積みの船も現れてきた。したがって、『千石船』というのは、あまり厳密な意味の大きさというよりも、当時の大型船という意味もあったと考えた方がよい場合も多い。
米俵1俵には米4斗が入っており、1石は米俵2.5俵である。米俵1俵4斗は、16貫すなわち60Kgであるから、千石船というのは、約2500俵積、積載量約150トンの船ということである。大量輸送機関の無かった江戸時代では、大変な大量輸送機関であったわけである。馬車の無かった我が国では、米穀は牛馬の背に乗せられて、振り分け荷物として1頭あたり2俵の米俵を輸送した。したがって、千石船1隻の輸送量は、牛馬1250頭に相当する。しかも、牛馬には馬子が必要であり、宿場毎に荷物をリレー(伝馬)されたが、弁才船の場合は、長距離の航海を十数人から20人程度の乗組員で運航した。
 東北地方などは、「陸奥」と呼ばれ、「奥の細道」といわれたが、これはあくまで陸路のことであり、海上の場合は、古くから日本の各地が船で結ばれていた。東北や日本海側の湊町を訪ねると、各地に伝わる風習や芸能の中に上方等の影響を大きく受けているものが多々あり、神社仏閣を訪ねると、江戸や上方、四国等の船問屋や船乗りの寄贈した灯籠や手水鉢などを多数見かけるし、この地で命の果てた遠国の船乗りの墓を見ることも多い。このようなことは、昔この地が船で上方や江戸と密接につながっていたことのなによりの証拠である。

3.さまざまな千石船
 かつて、日本の沿岸ではさまざまな船が運航されていたが、大型の荷船としては、以下のようなものがある。

 a.北国船
 日本海で使われた船の中で一番古い船型であり、青森県西津軽郡深浦町の「円覚寺」に船絵馬が残っている。null
   円覚寺の船絵馬からの模写した北国船
 
 b.羽風船
 別名「羽交船」とも書かれ、船尾が鳥の羽を合わせたようであったことから、この名が付いたと云われている。null
   和漢船用集にあるハガセ船

 c.弁才船
 もともと瀬戸内海を中心に発達し、改良の加えられてきた船である。船首に「水押(みよし)」と呼ばれる水切りの
よい船首材を持ち、中央部はずんぐりと膨らんだ船型である。横波に対する安定性が高く、大きな帆を掲げて帆走
を主力とした航海のできる船である。性能の優秀さから他の船型を圧倒し、全国に普及した。
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   佐渡島宿根木の復元弁才船 

 d.二形船
「ふたなりせん」と読む。瀬戸内で使われていた千石積前後の大型廻船である。
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    和漢船用集にある二形船

 e.伊勢船
東海地方で使われていた千石積前後の大型廻船である。

 f.天当船
17世紀の後半から明治の初年まで長い間使われた船である。比較的小型の船が多かったようである。



16:35:23 | umi | |

04 October

宇佐見湾だより3


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近世にはいると、いくさの形態も銃、大砲が大きな役目をはたすようになった。城郭は大砲の攻撃に耐えられるものでなければ
ならなかった。すでに太田道灌によって築かれていた江戸城を修築することは、戦国時代の延長としての徳川新政権にとっては、
緊急の課題であった。しかし、砲撃に耐えうる石材は、江戸近辺では得られなかった。利根川上〜中流からは丸石ばかりか、
ここを輸送路として使うには、治水の必要もあった。
東京湾にある鋸山(鋸南町)の石材もあったが、城郭用としては不適当とされた。目をつけたのが、北条氏の領地だった小田原
から熱海、伊豆半島東海岸に分布する安山岩群であり、とくに宇佐美の「御石ヶ沢」近辺には豊富にあった。

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河川の石舟とおもわれる。和漢船用集より

慶長9年(1604)8月「幕府は、江戸城修築の工を起こさんとし、(西国)諸大名に令して石材を運送せしめ・・・」と天下普請を
発布した。その内容は
?石綱(つな)船3千艘の建造命令
?船の大きさは「百人持ちの石二個」を伊豆半島東岸から江戸まで運べる規模のもの
?この輸送業務を「一ヶ月に二往復おこなう」であった。
石綱船建造のため補助金として、1万1925両があてられた。
浅野幸長 385艘、島津忠恆 300艘、黒田長政 150艘、堺商人尾崎又次郎100艘ほか合計3000艘であった。石綱船;
築城石を船に積み込むための神楽桟(かぐらさん―ウインチ)を装備した船。百人持ちの石;一人40kg、安山岩密度2.7g/
㎤とすれば、およそ、90cm×90cm×180cmとなり、外様雄藩に、石高10万石に付きこの石1120個を割り当てた
といわれる。

慶長11年2月、島津忠恆、幕府ノ命ニ依リテ造レル石綱船ヲ江戸ニ送ル、(史料総覧)
諸大名、江戸城増築助役ノ為メ、相尋デ参府ス、又家臣ヲ伊豆ニ遣シ、石材ヲ輸送セシム、(同上)
慶長11年5月25日、畿内、東海道諸国、風雨洪水数日ニ亙ル、江戸城修築ノ為メ、伊豆ノ石材ヲ運漕スル船舶、多ク覆沒ス、
(同上)(200艘が沈没との説がある)
慶長11年5月、是月、江戸城石壘修築ノ工竣ル、尋デ、幕府、助役ノ諸大名ニ物ヲ與フ、(同上)

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石綱船の絵であるが、慶長年間の築城石としては、大きすぎる。
錨に関して、検証を要するとおもわれる。この点につき、どなた
かご教示いただければさいわいです。ちなみに、絵にもある4つ
爪錨は、幕末、葛飾北斎の『風俗画報』76号、「佃島の錨」に
みられ、明末の崇禎10年(1637)に出された「天工開物」にも
同じものがあります。(箱根湯本、下田氏所蔵)

以上、第1次の天下普請であり、第5次までなされるが、第2次は慶長16年(1611)3月から19年(1614)9月にかけてであった。
そのとき同時になされたのが運河(舟入堀)工事であった。
伊豆各地から10トンほどの築城石をのせた石綱船は1日平均200艘にもなったが、重量物を陸揚げするための桟橋を、遠浅の
江戸湾に作る技術が当時にはなかった。海面下を掘り下げ、工事現場近くまで石綱船を曳きいれ、横付けし、陸揚げしようという
計画である。


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石垣は主に伊豆の自然石で、このあたりの石垣の積み方は
初期の打ち込みはぎで「野づら積み」というもので、自然石を
そのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうです
が、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、
関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。(皇居参観
ガイド’9/09/21)

現在、東京駅まえで国道1号線となっている旧東海道の、日本橋―-京橋1.4Km間には、その両側に平行して流れていた楓川
と外濠川のあいだを500mほどの11本の運河、東海道に一直線に架かった10のアーチ型橋がつくられた。また伊豆方面に向
かう石船に積み込む飲料水を確保するため、神田上水からの水道もつくられていた。徳川秀忠によりすすめられたこの運河計画
と江戸新開計画(都市計画)は、慶長17年2月、安藤対馬守が駿府城の家康のもとを訪れ、決済をえて実行され、現東京の基礎
が築かれた。


16:48:01 | umi | |