Complete text -- "千石船の湊を訪ねて4"

23 January

千石船の湊を訪ねて4

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東西航路の交点、北海道と青森(2)    津軽の湊

1.南部藩と津軽藩

 現在の青森県は、江戸時代の盛岡南部藩の一部と八戸南部藩、津軽藩及び黒石津軽藩の4藩が合わさってできたものである。この項で述べる津軽藩は、弘前(旧高岡)に城を築いて城下町としていた。しかし、城下が内陸にあったため、当時小さな漁村であった青森に新しい湊を築き、東回りの重要な湊として発達させた。むつ湾に流れる双股川が、南部藩と津軽藩の境界で、全国でも珍しい藩境を示す半球状の土塚が4基築かれている。
 津軽藩の湊は、「四浦、五浦」と称されていた。このうち「四浦」というのは、青森、鯵ヶ沢、深浦、十三(とさ)の四湊で、青森と鰺ヶ沢は津軽藩の代表的な湊、深浦と十三は歴史的に由緒ある湊である。一方、「五浦」というのは、国境警備の上で重要な碇ケ関、大間越、野内の「三浦」と、付近山林の木材積み出し湊として重要であった蟹田、今別を意味する「二浦」の総称である。津軽藩の海運は、もともと鰺ヶ沢湊など西海岸の湊を利用した西回り航路が中心であったが、青森に新しい湊を開いてからは、東回り航路にも進出している。

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        津軽藩と南部藩の藩境塚                     青森山の古絵図

2.千石船の湊として開発された青森の町

 津軽藩は、寛永元年(1624)幕府から許可を得て城米の江戸回漕を目的として、青森湊の築造を開始した。当時の青森は、善知鳥(うとう)村といい、周辺は茅萱が生い茂った漁家数十軒程度が点在する荒涼たる一漁村であつたと言われている。青森開港といっても湊のために大きな土木工事をしたと云うことではなく、むしろ湊として機能していくための町造りをしたという方が適切かもしれない。例えば、荷物の集散のための機能と施設造りである。津軽藩が青森湊を開発した背景には、北前船による蝦夷地との交易の中継地としての役割もあったと思われる。青森の地は寒冷で、米作りには適しておらず人口も少なかったため、藩は近江、富山、越前、越後などにまで、人を派遣して商人の移住を勧誘するとともに、移住者に対して種々の特典を与える事を約束している。また、上方等から来た船は、近隣の湊でなく全て青森湊に入って商売するような指示も出している。
 青森という名前は、昔ここに青森山という丘があったことによる。古絵図によると、団子みたいな小さな丘であるが、ねずの木が生えて、いつも緑々した山で、非常に縁起がいいというので名付けられたという。青函連絡船の玄関口であった青森も、今は新幹線の開業に関心が移っている。しかし港には、私も建造時に安全検査を担当した「青函連絡船八甲田丸」が係留されており、今も静かに町の動向を見守っている。青森の原点となった昔の善知村の位置には、善知鳥神社が祭られている。また、青森市内西方には、「みちのく北方漁船博物館」があり、国の重要有形民俗文化財である「ムダマハギ型漁船」「シマイハギ型漁船」等今は少なくなった木造漁船を中心とした和船を保存、展示している。木造船の構造を知るのに良いところである。

3.姿を現した中世の港湾都市『十三湊(とさみなと)』
 津軽半島の北部西海岸に十三湖(じゅうさんこ)という湖がある。しじみ漁業の盛んな湖で、しじみ汁が旨いことで有名な所である。今は、静かなこの地も、かつては、安東水軍で知られる安東氏の根拠地であり、中世から近世にかけて港湾都市『十三湊』として栄えた所で、『廻船式目』の『三津七湊』の一つとして記され、全国でも有数の港町として繁栄していた。(この記述は、越前伝来写本にのみあり、厳密さを問題にする意見もある。)
 しかし、15世紀に入ると、安東氏と南部氏の抗争が始まり、安東氏は追われて北海道に移り、この湊も衰微したと言われている。またこの地は、大津波により町が大被害を受け、地中に埋まったとも伝えられてきているが、中世の状況については、直接見られるものや詳しい資料はなく、伝承と後世の文献の中にのみ語られてきた。
 平成3年から5年にかけて、国立歴史民俗博物館が、大学や地元機関と協力して、この十三湊遺跡の共同発掘調査を行い、その後も青森県教育委員会等による調査が進められてきている。その結果、その実態がだんだんと明らかになりつつあり、伝説の伝える津波による壊滅的打撃も無く、中世の港湾都市遺跡が存在することが判明し、ますますロマンをかきたてる史跡になっている。中島には発掘資料を収めた『市浦歴史民族資料館』がある。

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          発掘現場の写真                           市浦歴史民族資料館

4.鰺ヶ沢と小泊の湊
 江戸時代の鯵ヶ沢は、津軽藩の御用湊として全盛を迎える。北陸や瀬戸内海、大坂からの千石船が頻繁に往来するようになり、鯵ヶ沢は、津軽藩の財政と市場経済の拠点のひとつに成長していった。白八幡宮に奉納された船絵馬(慶応元年とある)には、当時の鯵ヶ沢湊が細かく描かれており、貴重な史料である。津軽半島の最北端、竜飛岬の少し南側にある小泊も、古くから松前へ行く船の風待ち湊である。現在は漁業が基幹産業となっているが、この辺りの海岸には、「七つ滝」、「青岩」などの奇勝もあり、見所の多いところである。

5.『北国船の絵馬』で有名な円覚寺のある深浦
 日本海に沈む夕日の海岸で有名な深浦町は、江戸時代に京阪神地方と蝦夷地が海運によって結ばれるようになると、天然の入江が『風待ち湊』として重要な寄港地となった。湊には、湊番所、船問屋などがあった。この地の円覚寺は、船頭、水主達から『澗口の観音』(湾口の航海安全の観音)と呼ばれて、厚い信仰の対象となり、数々の奉納物が納められた。高田屋嘉兵衛がロシアの軍艦に捕えられた時にも、弟金兵衛が観音様に無事帰国を祈願した文書が残っている。現在の本堂も、船大工によって建てられ、欅がふんだんに使われている。
 この寺に奉納品の中には、江戸期日本海運の研究のために重要な物品が多数含まれている。奉納された船絵馬は合計70点あり、また、船乗りが海難に遭遇して観音さまに助けを求め、助かったことに感謝して、お礼に髷(まげ)を切って納めた『髷額』が28点等、合計106点の海事関係資料があり、国の重要有形民族文化財に指定されている。その中でも、特に有名なのは、他に技術資料の少ない『北国船の絵馬』である。
 私自身もこの絵馬は、文献では何回もお目にかかっていたが、ここを訪れた時に、住職にお願いし、通常の見学コースから離れ、長い間じっくりと眺めさせて頂き、長年の願望を果たした。また、深浦駅の近くに『深浦町歴史民俗資料館』と『北前の館』もあり、職員のていねいな応接に感銘を受けた。
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         円覚寺の灯台杉                          深浦町歴史民俗資料館




07:40:34 | umi | |
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